engagement

「晃さん、お待たせ!」
「あ、着けてきてくれたんだ」
 下船してからずっと小走りだった私が、息を切らせて傍らに到着した途端、彼は嬉しそうに
私の左手を取った。
「うん、もちろん」
 薬指に輝く小さなダイヤ。
「毎日学校にも着けてってるんだよ。指には填められないけど、チェーン通してネックレスにして」
「そう!」
 光がこぼれるような笑顔。
「それ、すげえ嬉しい」
 あなたが嬉しいと私も嬉しい。口には絶対出さないけど。
 と。
 握りしめていた左手の指先に、彼がすばやくキスをした。
 ぴり、と、その指先からむずがゆいような痺れが瞬く間に走ったが、
「ちょ……やめてよっ、こんなとこでっ」
 待ち合わせたのは新潟港のフェリー埠頭の待合室。週末なので人は多いし、そもそも彼は存在自体が
人目を引くのだ。
 慌てて手をふりほどくと、彼は周囲に聞こえよがしにハッキリと。
「いいじゃんこのくらい。婚約したんだしぃ」

 このダイヤのリングが私の指に填められたのは……つまり婚約したのは先月のことだ。私が春休みで
帰省した時に、慌ただしく結納を執り行った。とはいえ、結納と言っても両家とも勝手知ったる仲、
当然簡単なもので済ませた。仲人も立てず、小難しい七つ道具だか九品目だかを揃えることもなく、
単に集まれるだけの親兄弟を集めて会食をし、結納の印として彼からはこの指輪、私からはスーツの
服地をそれぞれ贈っただけ。

 それでも、婚約した、という事実は私をずいぶん安定させた。
 彼に指輪をもらったのは初めてではない。
 一昨年、亡くなったお母様の指輪をリフォームした、ブルートパーズのものをもらっていた。
 それもひとつの約束の印だったろう。 でも、それを彼と会う時以外に着けることは殆どなかった。
 石も良いもので、とても気に入ってはいたのだ。しかしデザインが立て爪で引っかかりやすいと
いうこと、それから教員という仕事柄、石のついたものを職場には着けていけないということが、
あまり着けない表向きの理由。
 しかし、理由はそれだけじゃなくて……

「こっちにはこれもつけてきたし」
 駐車場を彼の車に向かって歩きながら、右手を見せた。
「おっ、これもしてきてくれたんだ」 右手の薬指には、ブルートパーズ。
「ファッション的にどうかなって感じだし、見せびらかしてるみたいだけど、婚約後初めての
デートだし、今回だけいっか、って思って」
「うんうん、全然いいと思う。今回だけとか言わないでよ」
 今度は彼は私の右手を取り、
「両手とも俺のものって感じで、嬉しい」
「手だけ?」
 はしゃぐ彼に訊いてみる。
 返ってくる答えは分かってるけど、訊いてみる。
 何度でもその答えが聴きたいから。
 彼も、それが分かっているから、いたずらっぽい笑顔で即答する。
「もちろん君は全部俺のものだけどさ」

 婚約なんて、単なる区切りだと思っていた。
 それで私自身が変わるわけじゃない。
 彼自身が変わるわけじゃない。
 ふたりの気持ちが変わるわけじゃない。
 単なる口約束。

 それでも。

 ブルートパーズとダイヤ、ふたつのリングを並べて見てみると、そこには明らかな違いがある。
 指輪自体はそんなにグレードアップしているわけではない。院生だった彼がバイトしてやっと買った
ダイヤだから、プラチナ台は薄っぺらだし、石だって粟粒くらいのが3つ埋め込まれているだけだ。

 それでも。

 そのダイヤの指輪は私を安定させる。
 この指輪は、常時着けていてもいいものなのだ。
 私は、彼の婚約者なのだ。
 私は彼のものなのだ。
 彼は私を愛しているのだ。
 この指輪によって、常にそう主張してもいいのだ。
 そして指輪を見るたび、それを確かめることができる。

 ブルートパーズをもらった時も、とても嬉しかった。
 でも、主張する勇気と確信は得られなかった。
 私は彼のものだ。
 彼は私を愛している。
 外部に向けてそうアピールするだけの勇気と確信までは、得られなかったのだ。
 婚約なんて、単なる口約束だ。
 でも、私にとってはとても大切なことだったのだと、このダイヤを得て初めて知った。
 弱い私には、この指輪……つまり婚約という武器が必要だったのだ。

「本当はネックレスと言わず、常時指に填めといて欲しいんだけどな。そのためにシンプルな埋め込み
タイプを選んだんだし」
 シートベルトを締めながら、彼は唇を尖らせる。
「そりゃさすがに無理だよ。石入ってないならいいんだけど」
「だってさ、エンゲージリングって、この女性は婚約してます、決まった男がいますよって印だろ?
美誉さんには俺がいるんだから、他の男は近寄ることまかりならぬ! って主張するためのものじゃん。
着けとかなきゃ意味ない」
「まあそうだけど」
 確かに、基本的にはそういうものだろう。
「でもさあ、それ言うなら、私より晃さんが填めてなきゃいけないんじゃないの? 俺は婚約してるん
だから、女の子は半径1メートル以内には近づいちゃ駄目だぜ! って主張するためにさ、それこそ
ギラギラの石がついたむちゃくちゃケバい指輪とか填めてて欲しいよ」
「あー、それいいかも、そんなのしてたらさすがに女の子寄ってこないだろうな」
……あっそ。婚約しても相変わらず女の子は寄ってきてるわけね。と一瞬不愉快になったが、悲しい
ことに慣れてしまっているので、小さく溜息を吐いて流し、
「買ってあげようか、ケッバーいヤツ。美●憲一とかが着けそうな指輪。意外と似合うかもよ?」
「似合うかもしれないけど、そんなのもらったって邪魔くさくて着けてらんねーって。試薬で
あっという間に変色しそうだし」
 彼にも笑って受け流された。
「それよりさ」
 運転席からぐっと彼の顔が近づけられた。 細められた栗色の瞳に至近距離で見つめられ、今更ながら
ちょっとどきりとしてしまう。
「お金のかからない印が欲しいんだけどな、俺」
「な……なに?」
 お金のかからない印? 何かくれとか言うのかな? 彼の場合、女物のアクセサリーも似合うから、
欲しいならどれでも上げるけど、指輪はさすがにサイズがな……

「今夜、俺の肌に印をつけて」

……そうきたか。
 刺激的な台詞を吐きながら、彼の顔は更に近づいてくる。
 反射的に目を閉じると、掠れた囁きが。

「次に会う時まで消えないような、深くて熱い印をつけて……」

                                           FIN.

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