春きたりなば 


 練習前に雪かきをする必要がなくなり、足下が重たい雪靴から軽やかなスパイクに代わり、
ランニングにウィンドブレーカーを羽織っていると汗ばみ、チャリでスリップを恐れなくともよくなり、
薄いバッティンググローブ1枚でも金属バットで手がかじかまないようになって……などなど、
相対的に朝練が楽になってくることで、俺は春の訪れを実感する。
 とはいえ4月頭では、雪国の桜の蕾はまだ堅いし、朝は冷える。
「クラス替え、どーなったかなー」
 ベンチで白い息を吐きながら、海老名が思い切りよくアンダーシャツを脱いだ。3年生になっても
相変わらず薄っぺらの胸板が寒々しいが、バッティング練習をした後なので、体感的には寒くは
ないだろう。
 俺も一気にパンイチになったが、火照った身体には、初春の適度に湿度を含んだひやりとした空気が
心地いいくらいだ。最上級生になったのだから、堂々と部室内で着替えればいいようなもんだが、
雪が降ってるわけでもなし、汗臭い中ひしめきあって着替えるより、春の日差しの下でガバっと
脱いじまった方が早いし気持ちいい。
「クラス替えなー……」
 同じクラスになれるといいな……とはもちろん思うけど、まあ1/7の確率だし、理系と文系だし、
まず無理だろう。でもせめて、近くのクラスになれたらなーとは思う。なんせ去年は1組と7組で
いっちゃん離れてたもんな……とかつらつら考えてたら、海老名が、
「あー、今年もヒミちゃんと同じクラスになれたらいいなー。去年すっげ楽しかったしぃー」
 俺の顔を覗き込み、得意げに鼻の穴を膨らました。
 見透かされたのがちっとばかし恥ずかしかったので、ニヤニヤしている小さな坊主頭をがしっと
鷲掴みにし、
「ちょこざいな猿め、ワシの呪いでそうはさせぬわ!」
「いたたたたた、離せ熊! 馬鹿力めっ!」
 お猿がじたばたと暴れ、周囲で同じように豪快に着替えていた仲間たちが弾けるように笑った。
 まあ日々ネタにされようとも、彼女の存在を堂々と主張できるってのは、ありがたいことには違いない。
 ……って、あ。
 ベースボールバッグのポケットに入れっぱなしだったスマホに、彼女からのメールが入っているのに
気づいた。
 何だろ、こんな朝っぱらから。
 ぽいっと猿を放り出し、メールを見る。受信は30分ほど前……って、ああそうか、それってクラス表が
張り出される頃だな。彼女は校庭で朝練してるだろうから、いち早くクラス表を見れる。
知らせてくれたのか……と、見ると。
『来て! 早く!!』
 そんなこと言われても、朝練中にどうしろと。
 そもそもメールもらってからすでに30分も経っちゃってるし。硬式野球部では、練習中に携帯端末に
触れることは禁止されていることは、彼女だって知ってるはずなのに。
「よっぽど急ぎの用事なんじゃね?」
 いつの間にか、海老名が懲りずに人のスマホを盗み読んでいる。ぺし、と坊主頭を叩きつつ、
「うん、何だろな? ま、今更だけど行ってみっか」
 いずれにしろ始業の時間が迫っている。
 スボンだけ履き替えた格好で、練習着を部室のラックに下げ、スパイクから土埃を払って、
シューズラックの所定の位置にしまう。どんなに忙しくても、用具だけは大切にする、
それが球児としての基本であり、矜持だ。
 とはいえ、片付けるやいなや、Yシャツのボタンも閉めないままに、校舎へと駆けだしたわけなんだが。
『今いく』
 と、遅ればせの返信を打ち終え、やっとシャツのボタンをはめながら、グラウンドと校舎を回り込んで、
正門から校庭に駆け込んだ途端、
「ぶわっ」
 猛烈な砂埃に煽られ、目を瞑り、掌で覆った。野球グラウンドより、校庭の方が乾燥してる。
サッカー部め、ちゃんと水撒いたのかよ……と、朝練で校庭を使っていたはずの部活を心の中で
罵っていると、突然ぎゅっと腕が掴まれた。
「早く見てよ!」
 驚く間もなく彼女の声がして、瞼も上げられないのに、引っ張られるままにまた走り出す。
涙目の視界に見えてきたのは、セーラー服の背中と春の日差しに透ける栗色の髪。砂埃が舞い上がり、
彼女の纏う空気は金色の光を帯び、涙目を更に滲ませる。
 視界半分のまま連れて行かれたのは、3年5組のクラス表の前。
「ほら!」
 いつになく弾んだ彼女の声に、まさかと思いつつも、目をしばしばさせながら下から表を見る。
 えっと、ワタナベ、ワタセ……あったあった。
 んで。
 俺の名前は大体一番下かその上くらいなので、すぐに見つけられるのだが、そこからざっと表を
遡っていくと……。
「……お?」
「ね?」
 ぎゅうっと二の腕にしがみつかれる感触。
「ええと……俺の見間違えじゃなければ」
「あはは、やっぱそう思うよねえ。私も5回くらい見直しちゃった」
 キラキラの笑顔と、表の真ん中あたりの彼女の名前を見比べる。
「……やったっ」
 思わず叫びそうになるのを抑えて、控えめにハイタッチ。
「ねっ、やったねっ。しかも担任が菅野先生なんだよ」
「うわ、マジ?」
 それも嬉しい。まさか彼女と同じクラスで、しかも担任が菅野先生だなんて、まるでなんかの
陰謀じゃないかと疑いたくなるくらいのラッキー。
 加えて、校内ではツッコミ入れる時以外は、滅多に触れてくることのない彼女が、ぴったり寄り添って
くれてるのも嬉しい……と、思った瞬間。
「わーい、高校最後の1年、楽しくなりそーだなーっ」
 2人の間に力尽くで割り込んできたのは……お猿。
 はえーな、さすがチーム1の駿足、もう追いついたのか。
「ヒミちゃん、今年もよろしくね〜?」
「えっ、海老名くんも同じクラスだった?」
 彼女は慌てて3年5組のクラス表を見直した。
「あっ、ホントだ!」
「ええーっ、気づいてなかったの?」
 海老名は俺と彼女の間でがっくりと頭を垂れてから、俺の方を見てぷーっとほっぺたを膨らまして。
「渡瀬も気づかなかったとか、2人とも、友達甲斐無さすぎー!」
「ごめんごめん、一緒で嬉しいよ、今年もどうぞよろしくね?」
 彼女は改めて海老名に頭を下げた。
 そういえば、彼女と同クラになれたことで舞い上がっちまったけど、他に誰が一緒なんだろう。
 大分痛みの取れた目で、3年5組のクラス表をざっと見ていくと、知ってるヤツも結構いて
……というか、もう3年なんだもんな、同学年に大勢知り合いがいて当たり前なんだけど……。
「……ウッ」
 ある名前を見つけて、思わずうめき声を上げてしまった。
 だって、よりによって!
「中西もか」
 口の中で呟いたつもりだったのだけれど、彼女は耳ざとく苦笑して。
「あ、うん、それは私も見つけてた」
 海老名も声を潜めて。
「アレだろ、ヒミちゃんを中学ン時から嫌ってる女子だろ?」
 あ、もしかして海老名が俺と彼女の間に割り込んできたのは、割り込みたかったのはもちろん
だろうが、そのあたりで中西が、俺らが仲良くしてるのを見てるかもしれないということを
鑑みて……?
 そっと周囲を見回してみるが、中西の姿はないようだ。もう講堂に行ってしまったのだろうか。
 やべえ、はしゃいでないで気をつけないと。
「ま、大丈夫だよ、あの子だって受験生だもん、私なんかに構ってる暇はないでしょ。それに、
渡瀬も……海老名くんもいるしさ」
 彼女はそう言い切って笑ってみせ、海老名はすねる。
「ちぇー俺はどうせ熊のおまけだよっ」
「ええっ、そんなことないよー」
 チャイムが鳴り、掲示板の前で渦を巻いていた生徒の群が、新年度の高揚と共に一斉に動き出した。
「やべ、始業式始まっちまう。俺ら、ダッシュで荷物教室に置いてくるから、ヒミコ、先に講堂
行ってろよ」
「わかった、遅れないようにね」
 小さく手を振る彼女を残し、俺と海老名は急いで生徒の渦に、思い切りよく身を投じた。

       

 始業式後。
 講堂から出る人混みに巻かれ、ヒミコとはぐれてしまった。始業式中は男女別身長順に並んで
いたので、当然俺の真ん前にヒミコがいて、すいと延びたセーラー服の背中を、思う存分眺めて
いられたのに。
 まあいい、これから1年間は、式典のたびに彼女の後ろ姿を堪能できるのだし、教室に戻れば、
確実に彼女が存在するのだから。
 これからは毎日彼女に会える、そう思うだけで心の底のあたりがスーッと澄みわたっていく。
俺が文系で、彼女は理系だから、一緒の授業の方が少ないような状況だってことはわかってるけど、
それでも踊り出したいくらい嬉しい。
「……たせ、渡瀬!」
 うっとりとこの1年のことに思いを馳せていると、背中を結構な力でたたかれた。
「いてっ」
 振り向くと、女バス主将の黒田千華があきれたような顔で俺を見上げていた。
「何ボーッとしてんのよ。何度も呼んだのに」
「マジ? ごめんごめん」
 全然聞こえてなかった。
 もー、春だからってボケすぎ、と、と黒田は苦笑してから、
「ヒミコと同じクラスなんだって?」
「うんっ」
「何その嬉しそうなお返事……ハッ、せいぜいバカップルぶりを見せつけるがいいさ!」
「そんなことアイツがさせるわけねーだろ」
 学校では基本的にツンツンだからなー。
「黒田は何組?」
 昨年度、俺と黒田は同じクラスだった。黒田にはクラスでの立ち回りを色々助けてもらったもんだ。
「2組。田沢くんと一緒」
「おお、アイツ、ほっとくとクラスで孤立しそうだから、よろしく頼むな」
「よろしく頼まれてもなあ。頼りになるアニキだってことは知ってるし、あの無愛想がデフォルト
だってこともわかってるけど、彼と差し向かいで早弁してる光景を思い浮かべると、
ちょっとねえ……」
 笑ってしまった。
「まあ確かに女子が一対一で飯食うには、ちょっと面白味に欠けるわなあ」
 元々少ないAP(愛想ポイント)を、クラスメートに振りまくヤツではない。
「ま、スポーツの話題振っとけば間違いねえよ」
「そうしとくよ……その点、渡瀬は優秀だよね。女の子なら見境なく愛想がいい」
「見境なくはヒドすぎる……とは言っておくけど、俺だって苦手なタイプはいるんだぜ」
「そりゃそうでしょうけど……そういや」
 黒田は急に小声になって。
「彼女も一緒なんだって?」
 うん、と無言で頷く。彼女ってのは、もちろん中西のことだ。
「ヒミコ気の毒〜。でも、女の戦い面白そう。ちょくちょく見に行かなくちゃ」
「悪趣味! 少なくともヒミコは、直接対決する羽目にならないように気をつけると思うけどなあ〜」
 バカなことを言ってる間に3年5組の前まで来たので、黒田とはそこで手を振って別れた。
 クラスに入ると、席のトレードが始まっていた。黒板に指示があり、始業式前に出席番号順で
一応荷物は置いていたのだが、身長的にマズい席になってしまった者は、話し合って替えるように
とのこと。俺は窓際の後ろから2番目だし、ヒミコも廊下側から2列目の後ろから2番目で、
後ろは男子だから問題ないが、
「ええっ、俺後ろでいいのに」
 海老名がキーキーと騒いでいる。ちびっこは前、とか、居眠りするつもりだろ、とか、どーせ野球部は
あんまり授業受けれねーんだから、いる時くらい前で聞いとけ、とか散々言われて、結局真ん中の
一番前に押し出された。
 席につきながらぷっ、と思わず吹きだしていると、やはり微妙に笑いを堪えている表情の
ヒミコと目が合って。

 ……うん、やっぱいいな、同クラって。

        

 アッハッハ、と菅野先生は椅子にひっくり返るようにして、豪快に笑った。
「なんだよ、この組怪しいって。彼女と同クラになったことを、素直に喜べばいいじゃねーか」
 3年生ともなると、新学期が始まった途端に進路についての簡単な面談がある。とはいえ出席番号順
なので、出席番号ブービー賞な俺に回ってきた頃には、もう始業式から1週間以上経っちゃってるんだが。
「だって変でしょ。文系と理系とごちゃ混ぜだし」
 1週間もたつと新3年5組の顔ぶれも大分見えてきて、文系理系と分けられる一般学部を受験する
ヤツだけじゃなく、芸術系や専門学校狙いとか、とにかくバラエティに富んだ進路希望の生徒が
集まってるってことが分かってきた。
 他のクラスは大まかにではあるが、文系クラスと理系クラスに別れているのに、何この組の多彩な
顔ぶれは? という疑問を、進路指導ついでに菅野先生にぶつけてみたわけで。
「そうは言うが、文系クラス理系クラスと、きっかり分けられるわけじゃないんだぜ。ハッキリ
分類できない学部だってあるしな、毎年ごちゃまぜのクラスが2つくらいできる」
 そりゃそうか。文理どっち? って学部は確かにあるし、経済とか経営系を数学で受けるヤツだって
いるわけだしな。
 まあ授業自体は半分以上が選択だから、どのクラスにいたって同じっちゃ同じなんだけども。
「そこはわかりますけど、大体、俺と早乙女が一緒ってのが」
 私立文系と国立理系だし、成績も天と地ほどの違いがあるっつーのに。
「先生の陰謀ッスか?」 
 先生は面白そうに、
「一ヒラ教師にそんな権限はないって。たまたまだ。たまたま……むしろ、お前と海老名を
一緒にしたいっていう希望が、野球部長の先生からあったんだけどな」
「え、そうなんですか」
「夏までは何かと忙しいから、主将と副将をできたら同じクラスにしておいて欲しいんだと」
「へえ……」
 たしかに助かるけど……って、アレ、そういえば、去年の主将と副将も同クラだったか!? 
ほえー、やっぱ硬式野球部って微妙に特別扱いされてんだなあ。
「実を言うと、渡瀬は最初、4組に割り振られてたんだよな。調整してみたらこっちに移しても
支障なかったから……というわけだ」
「へえ−。そうだったんスか」
 つまり部長先生のおかげで、ヒミコと同じクラスになれたってこと?
「ちなみに、4組もごちゃまぜクラスだぞ」
「あ、そーなんスか?」
 つまり真ん中の4組と5組が調整クラスということかあ。なるほど。
「納得したか?」
「はい、大体」
「納得したなら本題に入るぞ」
「あ、はい、スミマセン」
「ええと、渡瀬の選択授業は……」
 菅野先生は俺に見えないようにファイルをめくって……生徒の個人情報とか成績とか進路希望とかが
事細かに書いてあるんだろう。去年からの担任だから……プライベートのつきあいも少々あったりするし
……裏も表も充分にバレちゃってるのはわかってるけど、菅野先生に俺はどんな風に評価されているのか、
知りたい気もする。
「受験のための選択教科は、古文V、現国V、日本史B、英語V、リーディングBとライティングB
……で変更ないか?」
「えっと、ハイ、大丈夫っス」
「芸術科目は体育に振り替えな」
「ハイ、引退後のことも考えて」
 3年になると、芸術科目を体育か技術家庭に振り替えることができる。そもそも専門学校や、
体育系受験者のためなんだろうけど、俺はむしろ部活引退後に身体が鈍らないようにという狙いだ。
まあ、俺みたいな根っからの体育会系には、身体動かすのが一番の気分転換になるからってのが
本音なんだけど。当然ヒミコも体育に振り替えた。
 まずは選択教科の確認から始まったことでもわかるように、この新年度早々の進路指導は、
選択科目の最終変更の機会でもあるのだ。
 先生はぺらりとファイルのページをめくり、
「で、第一志望はC大と」
「……ふぁい」
 俺の成績ではかなりの高望みであることはわかってるんだけど、それでもやっぱり野球部の練習を
見学させてもらって得た手応えもあるし、監督や先輩方の人柄にも惚れた。それに理子姉の楽しそうな
キャンパスライフを見せつけられちゃってるし……。
「も、目標は高く持ちませんと!」
 でもやっぱり恥ずかしいので、言い訳がましくそんなことを言ってみると、菅野先生は可笑しそうに
笑って、
「うんうん、今から無難なとこに決めつけるこたあないさ」
「ま、相当頑張らないとですけどね……」
「おいおい、まだ模試もロクに受けてないのに、そんなにシュンとすんな」
「だってウチ姉貴がC大ですから、おのずと分かっちゃうんですって」
 姉貴の高校時代の成績と比べたら、学年順位で100番くらい差があるだろうからなあ。
「姉ちゃん法学部だろ? C大は文学部の方が多少入りやすいぜ」
「そう言っても、多少、でしょ?」
「いや、渡瀬の場合、あながち高望みでもなさそーだし」
「え?」
 先生はごそごそと資料を漁って。
「C大は学校推薦枠が1名だけあるんだけど、スポーツ推薦でも可なんだ」
「えっ!? 学力推薦じゃなく?」
 理子が推薦入学だったので枠の存在は知っていたけど、3年1学期までの主要5教科平均評定が
4.5以上、更に、基礎学力試験有りって聞いてたから、俺には一般入試より無茶な条件だと諦めてたのに。
「スポーツ推薦だと、平均評定が全教科で4.0以上でいいんだ」
「おおおお……」
 全教科で4.0なら俺でも何とか(国語係と実技系だけはオール5なもんで!)。
「且つ、部活動などの対外活動において、地方大会以上レベルの大会で、優秀な成績を納めた者」
「それってスポーツ以外の部活でもいいんスか?」
 それこそ吹奏楽部とか、去年地方大会まで行ったよな? 書道部にも大きな展覧会に入選したヤツが
いるらしいし。文化系まで入れると、結構ライバルがいるかも。
「まぁそうだけど、スポーツの方が受かりやすいわなぁ……てか、野球で優秀な選手がフツーに
入学希望すれば、積極的に取るだろうという、学校としての計算もあってな」
「そーすかね?」
「さすがに野球部でも、今時、学費免除とかの特別枠で入学させられる人数は限界があるだろ」
「ああ……そうみたいっスよねえ」
 少子化で大学の経営状態も昔に比べれば厳しいだろうし、競技連盟の規定もあるみたいだしな。
「それに」
 菅野先生は、ボールペンの先を指揮棒のように俺に向け。
「渡瀬、C大に練習見学に行ったんだろ?」
「はい」
「第一志望にするなら、もう1回くらい挨拶に行っておくのもいいかもしれないな。本気度を示すために」
「そーゆーもんですか?」
「そういうもんらしいぞ。付属なんかだと、引退後に大学の練習に参加させてもらったりできるとこも
あるだろ?」
「ああ、はい、聞いたことあります……」
 大学生と練習、うらやましー。とか思ってたけど、そうか、入学の意志を示すって意味もあるのか。
「はい、理こ……姉に相談してみます」
 と言うと、菅野先生は笑って、
「姉ちゃん頼みもいいけど、お前自身がセッティングする積極性も大事だぞ」
「おおう、そっか。そりゃそうっすよね」
 うん、姉貴頼みばかりってなんだか情けないし、シスコンと思われたらかなわんし。
 理子のクラスメートで野球部員の山下さんの電話番号は教えてもらったから、ドキドキするけど、
頑張って連絡してみよう。春大と夏大の狭間に、日帰りでも何とか都合つけて行けたらいい。
「そのへんの段取りは充分そうだけど」
 菅野先生は秘密ファイルをわざとらしく俺の目から隠しながらめくり、
「きっちり勉強もしろよ。推薦狙うなら理系科目も、今学期は最低3はキープしないとだ」
「うっ……ハイ」
 ヒミコのおかげで、苦手な理数系もここまでは何とか3以上ですり抜けてきてはいるけど、
今年は全然別の授業になっちまうから、自力で何とかするしかない。
 と、先生が突然ぎゅっと眉を顰め。
「あと、アレがあったから……少しばかり硬式野球部員の推薦は不安が過ぎっちゃうんでな」
「……ハイ」
 ……アレ。
 アレな。
 去年の秋、N高野球部は北信越大会で準優勝した……が、ある不祥事で、対外試合を春まで辞退した。
センバツに選ばれる可能性があったわけだが、それも含めて全てがおじゃんになってしまったのだ。
 ただ、3年生は完全引退後だったので、先輩方の進路に支障が生じなかったのは幸いだったが、
モロ渦中にいた俺らの代はどうなることやら……。
「条件としては、昨秋の戦績で充分なはずなんだがな。渡瀬は中心選手なわけだし。だが、
その後の事情が、どう勘案されるかは俺にもよくわからん」
「ですよね……」
 そりゃあ菅野先生の長い教員人生のうちでも、あれほど天国から地獄へ突き落とすような不祥事は
経験してないだろうから。
 先生は、あんまり俺がシュンとしてしまったからか、まあ渡瀬がしでかしたことじゃないし、
きっちり謹慎したし、また春から頑張れば多分大丈夫だとは思うけどよ、と一応慰めてくれたが、
「要するに、夏に甲子園に行けたら、文句なしだろ」
「そりゃーもちろんそのつもりで練習してますけどー」
 常にそう思って練習してるに決まってるじゃん!
 しかしそれは俺ひとりで成し遂げられることではないし、それに人生には思わぬ落とし穴が
あるってことを、知ってしまったから。
「スポーツ推薦の場合、書類審査が通れば、当然面接と、あとは小論文だな……まあ、
それは渡瀬の場合は大丈夫だろ。国語の先生に頼んで見てもらうといい」
 小論はあるのか。
「大丈夫っすかね?」
「渡瀬、文章巧いじゃん」
「えっ、そっすかあ?」
「日誌が抜群に面白い」
「ええ、日誌ィ?」
 日直の時に書くアレ?
「宿題のレポートも、内容はともかく読みやすいし」
「内容はともかくて」
 ……と。
 トントン、と教室の戸を遠慮がちに叩く音がした。
「はいよ」
 先生が返事をすると、おずおずと戸が開いて、顔を出したのは……ヒミコ。今日はバスパン姿だ。
「ごめんなさい、まだ面談終わってなかった?」
「渡瀬に用事かよ?」
「違いますよ、先生に。提出物があるんです。そろそろ入れ代わりの時間かと思って来たんですけど」
 壁の時計を見れば、5分ほど面談予定が延長になっていた。
 面談の間には、面談者以外はできるだけ教室に近づかないことになっているので、入れ替わりの時間を
狙って来てみたのだろう。
次の面談者は校内で部活をしているはずなので、電話で呼び出すことになっている。
「おう、いいぞ、もう終わるとこ……な?」
「ハイ、ありがとうございました」
 立ち上がって頭を下げると、ヒミコはササッと教室に入ってきて。
「スミマセン、これ医学系模試の申し込み書。私の分と、阿賀谷さんの分と。受験料もあるので、
教員室の机にはおいとけなくて」
 2通の書類と封筒を先生に渡した。
「おう、そっかそっか、面倒かけたな。確かに預かった。面談終わったらすぐに担当の先生に渡しとくな」
「お願いします」
 阿賀谷千鶴は弓道部だから、校外の弓道場に行ってしまっているので、ヒミコが預かったのだろう。
「じゃ、失礼します」
 2人で頭を下げて教室から出た。菅野先生は軽く手を挙げて、スマホを取り出した。面談ラストの渡辺を
呼び出すのだろう。ヤツは熱心な生物部員だから、生物実験室にいるか、もしくは学校の周りで観察や
採取をしているか……春が来て嬉しいのは、運動部だけではない。
「面談、どうだった?」
 ヒミコが神妙な顔で尋いてきた。
「指定校のスポーツ推薦、あるんだってよ、C大」
「え! わあそれラッキーじゃん」
「ラッキーと言いたいところなんだけどな、結構キツくて……」
 俺にとってはギリッギリの推薦基準について説明したんだけど、
「イケるよ、きっとそれ。よかったじゃない、グッとC大野球部が近づいて!」
 ヒミコは強気な言葉と共に、笑顔で俺を見上げた……が、何だかその笑顔が微妙に堅く見えるのは
俺の気のせいではあるまい……。
 まあ今まで通り、部活と勉強と頑張ってくしかないんだけど、とボソボソ答えておいて。
「……ヒミコも、津久葉大、推薦受けるんだろ?」
「……うん」
 今度はハッキリと表情が曇った。

       

 新学期になってすぐの頃だ。
「先におべんと食べてて!」
 2時間目と3時間目の間の20分休み、貴重な早弁タイムだというのに、ヒミコが走って教室を出て行った。
何ごと? と思いながら海老名と弁当を広げていると、すぐにクラスメートの阿賀谷千鶴と連れだって
戻ってきた。
 阿賀谷とは俺も海老名も、もちろんヒミコも、3年になって同じクラスになるまで全く接点がなかった。
学年トップクラスの成績だから、当然存在は認識していたけれど、言葉を交わしたことすらなくて。
 なのに突然、熱心に言葉を交わしながら2人がクラスに戻ってきた。それだけでなく、ヒミコだけでなく、
阿賀谷も弁当を持ってきて早弁の輪に入ってきた。
「阿賀谷さんもいい?」
「いいけど……」
 悪いことはないけど、なんで突然? という表情が俺と海老名の顔に浮かんだのだろう、
ヒミコは声を落として。
「医学部模試の申込書もらいにいったら、一緒になって」
「……おお」
「そゆことー」
 一応驚いた声は上げたが、俺も海老名も阿賀谷が医学部志望だということはそれほど意外じゃなかった。
何せ学年屈指の才女、しかも家は代々の開業医らしい。
「せっかくだから模試も一緒に行こうか、って話してたんだ……ね」
 うん、と阿賀谷は頷いて。
「ついでに早弁仲間にも入れてもらえたら嬉しい……ひとりで早弁はさすがの私でも恥ずかしすぎるので」
 眼鏡の奥の目もキリッと、真顔でそんなことを言ったので、俺と海老名は思わず笑ってしまい。
「どうぞどうぞ」
「早く食べないと、時間ないよ」
 ヒミコも阿賀谷もふふっと笑って、弁当を開いた。
「阿賀谷、弓道部だっけ?」
「うん」
 阿賀谷は小さな弁当箱を開けると、慌ただしく掻き込みはじめた。
「今までも早弁してたのか?」
「たまーに」
 やっぱりそうか。えらく慌てた食べっぷりが、あんまり早弁慣れしてるカンジじゃない。毎日やってたら、
もっとペース配分がきっちりできるはず。
「じゃあなんで、3年になって今更?」
 順調に3つ目のおにぎりを食べながら海老名が訊いた。
「3年になったからだよ」
 もぐもぐごくん、と、阿賀谷はお茶で口の中のモノを流し込んで。
「最後だからね、今年は何としても団体戦のメンバーに入りたいから、少しでも頑張ろうと思って」
「ああ、弓道部も厳しいもんなあ」
 納得。
 N高の弓道部は古豪で、毎年のように全国大会まで行っている。県内中から熱心な部員が集まって
いるのだ。
「弓道部って、昼練って何すんの?」
「ゴム弓引いて、あと瞑想しようかなって」
「おお、瞑想!」
 さすが弓道部ってカンジー! と、盛り上がったのだったが、休み時間が残り少なくなった上に
教室移動もあるので、この日の質問タイムはここまでになった。
 とはいえ、ここまでで既に、阿賀谷は俺たちが勝手に想像してたようなオッカナイ系の近寄りがたい
才女ではなく、サバサバした男っぽい性格であることが判明したので、それからの早弁タイムは
しばし、彼女の人となりを知る時間となった。
 そんなわけで、多分次の日。
「でもさ−」
 質問のとっかかりを作るのは、大概海老名である。
「弓道場って学外じゃん? 部活時間終わっても、居残り練習とかできるんだろ。無理に早弁してまで、
昼練することないんじゃ?」
 一応進学校であるN高は、部活時間が夏6時半、冬6時までと定められており、それ以降は先生と
セコムに閉め出されてしまうのだ。
 ちなみに、学外にグラウンドのある硬式野球部は、ボールが見えなくなるまでやる……っつーか、
見えなくなってもやってるけど。
 阿賀谷は塩鮭の切り身から骨を外しながら、微妙にうんざりした表情で。
「ウチ、門限7時なんだよ」
「そりゃ部活してると微妙にキツいな」
「正規の時間で終わって、片付けして、自転車ぶっとばして帰るだけでギリギリ」
「ご両親が厳しいんだ?」
 ヒミコが気の毒そうに訊いた。ヒミコん家はゆるゆるだからなあ。門限も8時だし。
「厳しいってかね……うーん、心配性の余り、ちょっとばかし過保護なんだな。わたし、一人っ子な上、
父が40歳過ぎてからの子なんだ。心配する気持ちもわかるから、あんまり無碍にもできないってかー」
 なるほど……と、また俺たちは納得して、その日の話はここまで。
 そしてまた別の日。
「へえ、北大」
 阿賀谷はホント裏表のない率直なヤツで、聞きたいけど聞いちゃいけない志望校も、
アッサリ教えてくれた。
 北大かあ、さすが……とも思ったが。
「東大とか京大じゃないんだ?」
 いやいや、と阿賀谷は箸を振って。
「東大医学部クラスになると、N高からじゃ年1人行くか行かないかくらいだって……まあもっと
必死で勉強すれば行けるのかもしれないけど」
 ううむ、現状のすんばらしい成績が必死じゃないっつーのか、この女は。
 理系に幾分偏ったヒミコと違って、阿賀谷はオールラウンダーだから、こういうヤツこそ東大とか
行くんじゃないかなーと、下々は安易に思っちゃうんだが、まだ足りないというのか……ッ!
「どーせなら東大! とか思わないんだ、アガやん程の人が。それに周りも勧めるだろうに?」
 海老名も首を傾げた。
 この頃には、俺も海老名もヒミコも既に阿賀谷のことを、アガやんと呼び始めていた。
「まあ、学校のためにも目指せとか言う先生もいるけどね、そんなのは知ったこっちゃない」
 と、阿賀谷はウズラの卵の煮付けをクールに口に放り込み、
「東大は近すぎるんだよな」
「はい?」
「言っただろ、わたしの親が過保護気味だって」
 それは聞いた。
「東京の大学じゃ、毎週末帰ってこいとか言われそうで」
「わあ、それで北大なんだね」
 ヒミコが目を丸くして。
「いっそ海を越えてしまえー、ということ?」
「そういうこと。北海道なら、そうそう帰ってこいって言われないだろ?」
 親が納得しそうなレベルの大学で、なるべく遠いとこ……という選択で北大なのか!
「一応言っておくけど、医者になることも、医院を継ぐことも嫌じゃないんだよ」
 父のことも尊敬してるし、と、阿賀谷は渋面で語った。
「ウチの医院閉まっちゃったら、地元の人たちが困るのもわかってるし」
 阿賀谷医院は一応市内だが、それでも田舎の医師不足は切実なのだろう。
「だけどやっぱり、若いうちに1度は、親元をキッパリ離れておきたいじゃない?」
 ……うん、それは解る。よく解る。
 また皆納得して頷くと、阿賀谷は、ちろっと舌を出して。
「北の大地への憧れってヤツも、当然あるけどね」
 それもとってもよく解る。
 そんな話をした放課後に、ヒミコの進路面談があったので、次の日の話題は当然そのことになって。
「やっぱヒミちゃんも、推薦で受けてみろって言われたでしょ?」
 裏表のない阿賀谷は、他人に対しても率直だ。
 うん、とヒミコは苦笑交じりに頷いて。
「一般推薦だけどね」
 推薦を勧められたという話、俺は前日の晩にメールで聞いていた。
「そりゃそうだ、旧帝大の医学部なんだから、指定校推薦は基本的に無いよ。わたしだって北大、
一般推薦で受けるよ」
 海老名が気の毒そうに。
「そうなんだあ、指定校推薦ないのかぁ」
 海老名はすでに東京の強豪A大野球部から声をかけてもらっているので、ありがたく受けるそうだ。
A大にはヤツが志望している経済学部もあるので、相思相愛でめでたいことである。指定校推薦枠も
あるし、海老名本人がよっぽどやらかさない限り当確だろう。ぶっちゃけ羨ましいが、
海老名の素質と努力をよっく知っている俺的には、納得し、寿ぐしかない。
「あとね……」
 ヒミコが少し声を落として。
「AOも受けてみないかって勧められた」
 AO入試……Admissions Office入試。出願者自身の人物像を学校側の求める学生像
(アドミッション・ポリシー)と照らし合わせて合否を決める入試方法。
「おおう、そういう手もあったか。ヒミちゃんにはピッタリじゃね?」
 海老名が言った。
 昨夜電話で、その話を聞いたとき、俺もそう思った。
 成績優秀――幾分理系に偏り気味ではあるが――しかも全国レベルの、個人種目の競技者。
更にその競技経験を生かして、スポーツドクターになりたいという明確な希望を持っている。
 津久葉じゃなくたって、どこの大学だって欲しい人材だろう。
 そうは言ってもねえ〜、とヒミコ本人は弱気だ。
「小論文・面接だけじゃなく、主要三教科の基礎学力の試験があるんだよ。私、国語イマイチ
だからさあ」
「ヒミちゃんのレベルなら、基礎問なら問題ない」
 ズバッと阿賀谷が言ってのけた。
「まあ、一般推薦にしろ、AOにしろ、指定校と違って所詮水物だから、お互い一般入試にも
対応できるように、油断しないで勉強しとくにこしたことはないけどね」
「だよねえ……」
 苦笑したまま、ヒミコはゴクリと果汁100%のオレンジジュースを飲んだ。
       

 放課後の廊下は人気がなくて。
 わざとゆっくり歩く。
 お互い、早いとこ練習に戻らなければならないのだけれど、窓から入ってくる春風に
 ふたりなぶられる、この時間が愛しい。
「もしかして、俺に会いたくて、このタイミング狙って来てみた?」
 からかうように訊いてみると、彼女は照れくさそうに微笑んで。
「そんなこと……あるよ。だって、面談の話ききたいし」
 と、小さな声で答えた。

 春休みから、ヒミコは岡島先輩もやっていた通信講座を受け始めた。
 俺は、部活が休みの日だけだが、予備校で英語の講座を受けはじめた。
 春がきて、俺達は紛れもなく受験生になった。その自覚はある。頑張らなければならないと
思っているし、頑張っている。
 ここまでも、頑張ってきた。部活はもちろん、部活ほどではないが、勉強も。
 その成果はあった……と言えるだろう。これまでの努力のおかげで、俺達は推薦という、
ありがたい話を頂戴できているのだから。
 一歩一歩、目指す未来に向けて、近づいていっている実感があるし、正直ワクワクもしてる。

 なのに。
 
 肩が触れるほど傍にいる彼女との間、地下深く。そこには小さな小さな亀裂があって、
その亀裂は、未来へ一歩踏み出すたびに、ぎしり、ぎしりと、音を立てて少しずつ広がっていくのだ。
 そのたびに、亀裂をひとすじの寂しい風が吹き抜けるのを感じてしまう。

「……とはいえ、スポーツ推薦なんて所詮ミズモノだっしー? 引退までにケガしたり、
大スランプに陥って、おじゃんってこともあり得るわけだからさ」
「うわあ、春から何て不吉なこと言うの」

 でも、俺たちは笑い合う。
 お互いの進路にもたらされた幸運を、心から喜び合う。
 ここは精一杯やせ我慢して笑うべきところだと、知っているから。

「だーかーら−、油断せず勉強もしなきゃだよな、って話だって」
「そりゃそうだ。ケガを怖れて、プレイが小さくなっちゃったら本末転倒だしね」
「どーっせ試合になったら、受験のことなんて頭からふっとんじまうしな」
「うん、目の前の勝負のことしか考えられないよね」 

 冬来たりなば、春遠からじ。
 このシェリーの一節を、この冬は座右の銘のように何度も唱えてきた。
 そして春はやってきた。
 野球ができる喜びの中。
 未来に向けて道が切り開かれていく喜びの中。

 春来たりなば、冬遠からじ。

 そうも思ってしまうのだ。
 3年生の春が過ぎれば、最後の夏が来てしまう。
 夏が終われば、秋がきて、冬が来る。
 そして冬が来れば――春遠からじ。
 ここまでの高校2年間があっという間だったように、最後の1年も瞬く間に
過ぎ去っていくだろう。

 次の春、俺たちは、どうしているのだろう?

 忘れまい。
 この大切な1年を――忘れまい。

                                   FIN.

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