イルミネーションが消えても 3


 シャワーで丁寧に浴槽を流すが、洗剤を無駄に多く使ったために、泡がなかなかとれない。
シャワーカーテンも洗濯すべきだったかもしれないけど、もう間に合わないな、とカビっぽくなっている
カーテンの匂いを嗅いでみる。

……それにしても、職場のみんなには本当に悪いことしちゃったよなあ。

 繁忙期の年末に、ほぼ1ヶ月丸々、残業免除・シフトの交代、果ては自分の担当地域のお得意様の
集荷依頼に対応してもらったことさえあった……それに、約束も破っちゃったわけだし。


 12月のCD発売による狂騒は、インストア・ライブでは終わらなかった。
 今度は商店街の方から、年越しミニライブをやってくれという依頼が、またしてもさし迫りまくってから
舞い込んだのだった。12月31日の光のページェントの消灯式後、ページェント用に設置されていた
公園の野外ステージの最終イベントとして催したいというのだ。

「いくらなんでも、それは無理ですから!」

 即座に俺はそう答えた。
 本業もマジで佳境に入っていたし(すでに12月20日を過ぎていた)、準備期間も少なすぎる。
インストア・ライブみたいに『クリスマスが待ちきれなくて』と他2曲だけってわけにはいかないだろう
から、練習が到底間に合わない。加えて、今年はrainy moonのレコーディングがあった上、
夏のジャズフェスへ出演したりもして、本来の活動であるはずのストリート・ライブがあまりやれなかった
から……つまり、ここしばらくオリジナルを歌う機会が少なかったという不安もあった。それに、
インストア・ライブは、規模や距離感がストリートと似ているからそれほど緊張しなかったけど
(数十人のお客さんと近い距離で、という感覚)野外ステージとなれば、スケールが全然
違うではないか―――

 しかし、否定材料ばかりが頭を過ぎりまくっている俺に、電話の向こうの商店街役員は、
軽い口調で。

「そう言わないでよ、引き受けてもらわないと困るんだよぅ。だって、商店街のHPで
告知しちゃったからさぁ」

 
 あの時は、冗談でなく倒れそうになった。なんで本人の了解を得る前に、そこまで先走る? 
よっぽど俺が舐められてたってことなのだろうか?

 ユニットバスの掃除に見切りをつけ、室内の掃除に取りかかる。とはいえ、ここ8日間、ほぼ寝に
帰っていただけなので、汚す余裕もなく、さほど散らかってはいない。全体にうっすら埃っぽくなって
いる程度。あちこちに散らばっている洗濯物を拾い集め、たまったゴミを出して、掃除機をかければ
それなりにはなりそうだ。


 結局俺は、商店街の年越しライブも、引き受けてしまったのだった。完璧に押し負けた。それでも
できるだけコンパクトにという条件は出し、演奏時間はワンステージ30分のみ、ステージは使わず、
客席に演奏スペースを作ってもらい、ストリートと似た雰囲気で歌えるようにしてもらった。そもそも
ギター1本で大きなステージで歌えるほどの自信は無い。よっぽど、夏のジャズフェスで組んだトリオに
手伝ってもらおうかとも考えたのだが、なにしろ練習時間が無さ過ぎなので、それは断念した。
 しかしそれでもまた、大晦日までの10日間ほどは、本業をやりくりして毎日必死に練習を
しなければならなかった。

 ソロのレコーディングやインストア・ライブ絡みで、11月末から12月前半、仕事を同僚たちに
融通してもらうたび、俺は、
「年末年始は無休で朝から晩まで働いて埋め合わせしますから、どうか今だけお願いします!」
と、みんなに言いまくりーの、頭下げまくりーの、で、あった。
 本当にそのつもりだったのだ。年末年始はフルで出勤して、きっちり埋め合わせをするつもりでいた。
 なのにまた、大晦日までずるずる甘える羽目になってしまって……約束を破ったと言われても、
仕方がない。いや、面と向かってそんな文句をたれる大人げない人はいない。
 けれど……ってか、だからこそ余計、ものすごく心苦しくて、せめてもの罪滅ぼしに、俺は年越し
ライブを終えた元旦の早朝から出勤し、7日まで一週間休み無しでシフトを入れた。今度こそ、
レコード会社や商店街組合やラジオ局に何を言われても、絶対この一週間は宅配屋に専念するんだ! 
という強い決意で仕事に臨んだ。

 しかしなんと。

 11月末からの超ハードスケジュールで疲れが溜まっていたのか、俺ってヤツは、
たった3日働いただけで、ぶっ倒れてしまったのだ。

 しかもインフルエンザ……

 

 正月3日の朝、出勤前に、あれっ、ちょっと風邪気味かも、ヤバイかな、とは感じたのだった。しかし、
その時の俺はどうしたって休むわけにはいかないから、漢方系の風邪薬を飲み(運転するので強い薬は
飲めない)マスクだけはかけ、いつも通り出勤した。午前中くらいは忙しかったのもあって、風邪気味を
忘れ仕事に集中できた。しかし、午後からみるみる具合が悪くなり、寒気・疼痛・喉の痛みを感じるように
なり、夕方には、これは結構な熱があるんじゃなかろうか、と自覚できるくらいに具合が悪くなった。
それでもシフト通り21時までは何とか仕事を続け、やっとの思いで車を営業所に帰し、帳簿をつけた。
 が、そこでとうとう力尽きた。その頃には酷い頭痛にも襲われていて、とてもバイクでは帰れそうも
なかった。バイクを置いていっても、バスを乗り継げば帰れるのだが、バスを乗り換える体力すら
残っていそうにない。荷分け深夜勤の同僚やバイトくんにも、顔赤いですよ、具合悪いんじゃ? と
指摘される始末で、こりゃ金かかるけど、タクシー呼んで帰るしかない、道中薬局に寄ってもらって、
即効性のある薬買って、なんとか明日の朝まで熱下げて……と考えていた、まさにその時。

 彼女からメールが入ったのだった。ごく普通の、毎晩入るようなメールだった。そろそろ仕事終わる頃
でしょ、お正月からお疲れ様、みたいな、日本中の恋人同士が毎晩取り交わしているような、たわいない
短いメール。だが、そのメールが、その時の俺には、命綱に見えてしまい……メールに返信する代わりに、
SOSの電話を彼女にかけてしまった。
「風邪ひいたみたいで急に具合悪くなっちゃって。とてもバイクで帰れそうもないんだけど、
もし良ければ、職場まで車で迎えに来て、部屋まで送ってくれないかな……」
 そんな風に頼んだような気がする。よく覚えてないのだ。体調のせいか、それとも、明日仕事に
出れなかったらマジヤバい、という動揺のせいか……
 そもそも俺は、いくら恋人といえども普段はこんなに簡単に女性に甘えたりする情けない男ではない
……つもりだ。しかしこの夜は彼女に即行頼ってしまったのは、熱に浮かされていたせいだと、
ぜひ思いたい。信じたい。

 この場合「幸いに」と言うべきだろう、彼女の家と俺の職場は割と近いので、15分ほどで彼女は
駆けつけてくれた。仕事帰りに待ち合わせる時には、いつもなら近くのファストフードショップの
駐車場を使うのだが、この夜ばかりはその余裕も無かった。
 事務所に駆け込んできた彼女は、夜だというのにキチンと薄化粧をしていた。そればかりでなく、
夜勤の同僚たちに如才なく挨拶し、頂きもので恐縮ですが皆さんで召し上がって下さい、と菓子折まで
差し出した。俺は、熱と痛みと倦怠感でボーッとしながらも、さすが弁護士秘書だ……と、感心していた
(余談だが、インフルエンザが治って出社した日、職場で冷やかされまくったのは言うまでもない)。

 帰途、彼女は薬局に寄ってくれたが、解熱剤は買ってくれなかった。もしインフルエンザだったら、
やたら薬は飲まない方がいい、と言うのだ。そして明朝一番で医者に行こうと。
 それは困る、明日はどうしたって仕事に出なければならない、それにただの風邪かもしれないでは
ないか、と、だだをこねると、信号待ちで車を停めた彼女はちょっと怖い顔で、助手席の俺を睨み、
「その急激な悪化っぷりからすると、インフルエンザの可能性が高いでしょ? 職場のみなさんやお客様に
感染ったらどうするの? 年末にインフルエンザ流行ってたの知らないの? 市内の小学校、冬休み前に
幾つも学級閉鎖になってたのよ。それにそんな体調で仕事できるわけないじゃない。帰る時にあんなに
具合悪かったんだから、職場のみなさんだって、明日、浄くんが出勤してくる可能性が低いだろうって
ことくらい、予想してらっしゃるわよ」
口調は静かだったけれど、言葉を挟む隙もないくらい、立て続けにまくしたてた。
 確かにそれはその通りで……その通りなんだけど、でも、その時の俺の立場からすると。
「でも、休むわけにいかないんだけどな……」
 俺の弱々しい反論は、もちろんさっくり黙殺された。

 家に着いた頃には、体調はますます悪くなっていて、胃痛と吐き気さえもよおしており(もしかしたら、
仕事を休まなければならないというストレスが原因だったかも)、彼女が薬局で買ってくれたレトルトの
お粥さえ食べる気にならなかった。なんとかドリンク剤と、栄養ゼリーだけを飲み込み、ベッドに
潜りこんだ。
「うわ、39度2分もあるわよ?」
 俺の脇の下から引っ張り出した体温計を見て、彼女も驚いていたが、俺も驚いた。そんな高熱、
小学校以来くらいじゃないか? 熱、計らなければ良かった。数字を知って、気が遠くなった。そして
ますます明日の出勤が絶望的であることを思い知り、ベッドにめり込みそうなほど落ち込んだ。
「……送ってくれて、ありがとう。園子ちゃんの言う通り、明日、ちゃんと病院行くから、
もう帰っていいよ」
 落ち込みつつも、額に冷却剤を貼ってくれている彼女にそう言うと、
「え、泊まるわよ。そのつもりで来てるもん。明日までお正月休みだから大丈夫だよ」
こともなげな返事。
 泊まってくれるってのは、もちろん、嬉しい。嬉しいけど……そうか、世間はまだ正月休みで
……その貴重な休みの日に俺ってば、彼女をこんなことで……看病させるために、呼び出して
しまったってことになるのか。
「ごめん……」
「何が?」
 熱でぼうっと霞む視界の中、彼女は首を傾げたようだった。
「せっかくの正月休みなのに……」
 苦しいのと申し訳ないのと情けないので涙が出そうになったが、彼女は、そんなこと気にしないで、と
笑った。
「むしろお休み中で良かったわよ。仕事が始まってたら、明日病院には連れていって
あげられなかったもの。それに……」
 ひんやりとした掌が、頬を優しく撫でる。
「ちょっと嬉しいかもだし。久しぶりだもん、浄くんとふたりきり」


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