イルミネーションが消えても 4


……ああ、そうか。そういえば、そうだ。
 11月末のレコーディングの話があってからこの方、彼女と一度もデートらしいデートをしていない。
仕事が休みの日も、暇さえあれば練習ばかりしていたし、インストア・ライブも、年越しライブも、
彼女は欠かさず聴きにきてくれたけれど、いつも俺は慌ただしくて、演奏後にも二言三言交わすだけの
時間しか無かった。
「……そっかぁ」
 職場ばかりではない、ここ1ヶ月余りの俺は、彼女にも、とても申し訳ないことをしていたのだ、と
気づいた。

 目を閉じると、赤黒い闇の中、ぐるぐると体が渦を巻いて地球の中心に向かって落ちていくような
気がした。
「明日の夜までいられるから、病院にも連れてくし、ご飯も作るから、安心して眠って」
 優しい声がして―――ふいっ、と一瞬、ヒヤリと湿った、けれど柔らかいものが、唇を掠めた。
「……感染っちゃうよ」
「大丈夫よ、私はちゃんと予防接種受けたもん。そう簡単に感染らない」
 そういえば11月だったろうか、彼女に、インフルエンザの予防接種受けた方がいいんじゃないの? と、
勧められたことがあったのを思い出した。なるほど年末年始は忙しくなるし、受けた方がいいだろうな、と
その時は思ったのだが、誘われた直後にレコーディング諸々で忙しくなってしまい、
すっかり忘れてしまっていた。

 本当に、俺ってダメなヤツだな……

 更に気分は暗くなったけれど、電気毛布が暖まってきて悪寒が多少治まり、冷却剤のおかげか頭痛も
少し改善されてきたようで、次第に意識が薄らいできて―――彼女の温かな気配を感じながら、
いつしか俺は眠りに落ちた。

 

 ホンットに、あの時は、彼女にも職場にも、大迷惑かけた……
 フローリングにがしがし掃除機をかけつつも、あのインフルエンザのことを思い出すと、体の内側が
むずがゆくて、無性に叫びだしたくなる。

 明けて4日は日曜だったが、彼女に休日当番の内科医院に連れていってもらい、やはりインフルエンザで
あるということが判明した。
 仕事は5日間休む羽目になった。熱は4日目には大凡下がっていたのだが、例のインフルエンザ特効薬は
きっちり5日飲まないとウイルスを撃退することはできないのだそうで、それに治りがけに出勤した
ところで、運転はできないし、ウイルスを職場と配送先に飛び散らせに行くようなもんだし、
迷惑なだけだ。気分はめちゃめちゃ焦っていたけれど、ひたすら回復を待ち、横になっていた。

 彼女は本当に4日の夜まで家にいてくれて、甲斐甲斐しく世話をやいてくれた。食事の世話はもちろん、
俺が薬で爆睡している間に、11月末からの強行日程のおかげで今日の状況なんて目じゃないくらい
荒れていた部屋もピッカピカに掃除してくれていたし、洗濯とアイロン掛けまでしてくれた。
 それだけでなく、5日の仕事始め以後も、出勤できるようになるまでは毎晩寄ってくれて、買い物をして
食事を作ってくれた。ぶっ倒れて3日目くらいまでは、熱のせいでふらふらして外に出られる状況では
なかったので、それもとてもありがたかった。
 もちろん感謝感激だったが、申し訳ないという気持ちも大いにあった。夫でもない、婚約者でもない
愚図な俺のために、そこまでさせてしまった、という後ろめたさも……


……そうなんだ。
 俺は愚図なんだよな。
 仕事も、恋も、歌も、ぐずぐずずるずると中途半端ばかり。

 部屋中から集めたゴミを大ざっぱに分類し……といってもコンビニ弁当の空き容器が大部分を
占めるので、家庭ゴミとプラゴミに分けるだけだが……幾つかの指定ゴミ袋に押し込む。アパートの
集積場にゴミを持って行こうと、玄関のドアを開けると。

「雪か……」

 いつの間にか雪が降り出していた。大した降りではないが、アパートの通路の向こうに見える隣の
一軒家の瓦屋根は、すでにうっすらと白くなっていた。
 ぶるり、と寒気に身震いをしながら、彼女、雪道の運転大丈夫だろうか、と、一瞬考え、
大丈夫だろうな、と思い直した。12月の頭には冬タイヤに取り替えていたし、運転も丁寧だし。
 なんたって、彼女は、俺なんかより100倍もしっかりしてるし、大人だし……

 そこまで考え、つい溜息を吐いてしまったが、サンダルをつっかけ、冷たい空気の中へ出た。
 夜の8時を過ぎていたが、土曜の夜ということもあってか、アパートは灯りの点いていない部屋の方が
多かった。独身の野郎ばっかりのアパートだから、平日休日問わず、こんなもんだ。

 大人だけど……と、また彼女のことを考える。
 それでも、可愛い、と思う。可愛くて、可愛くて、抱きしめる以外、何もできなくなるほど、
可愛く思えることすらある。


 例えば。
インフルエンザで、俺の部屋にいてくれた時のこと。薬のおかげで爆睡し、汗だくで目覚めると、彼女が
俺の枕元で文庫本を開いていた。掃除も洗濯も終えてしまい、やることが無くなったのか、俺の蔵書を
読んでいたらしい。
 だるい体で寝返りをうつと、
「あ、目、覚めた?」
彼女は、本にしおりひもを挟み、パタンと閉じた。
 手際よく、汗拭きと着替え、水分補給、シーツまで取り替えて、再び俺をベッドに押し込んでから、
彼女はまた本を開いた。
「……何、読んでるの?」
「『智恵子抄』」
 俺の問いに、彼女は切り絵の表紙をこちらに向けながら答えてから、
「あ、ごめん、勝手に借りちゃった。良かった?」
慌ててつけたした。
「構わないよ、どれでも読んで……面白い?」
「うん、読んだの中学か高校の教科書以来だけど、大人になってからの方が染みるね」
「うん、そういう詩って多いよね」
 俺は割と詩集を良く読む。元来結構本を読む子どもではあったのだが、音楽を始めてからは忙しいのと、
他にやりたいことがたくさんありすぎて、遠ざかっていた時期もあった。しかし専門学校に入ってから、
詞を書くにあたり自らの語彙の少なさに愕然とし、手っ取り早く勉強するために詩集を積極的に手に取る
ようになって、ハマったのだ。今となっては勉強はさておき、選び抜かれ、研ぎ澄まされた言葉を、
頭の中や、口の中で噛みしめるように転がすのが、純粋に気持ちよくなっている。
「光太郎の、智恵子に対する愛を感じるよねっ」
 うふ、と彼女は笑いを漏らして、俺が頭を載せている枕に片頬をつけ、
「らぶらぶ夫婦だったんだねえ」
嬉しそうに言った。
「まあね……」
と、答えてから、その時は大分体も楽になっていたので、つい意地悪がしたくなり、
「でもね、智恵子が心を患った原因って、実家の倒産と光太郎の浮気が重なったからだっていう説も
あるんだよぉ」
「え……」
 デリカシーのないツッコミに、彼女は少しだけ悲しそうに眉を顰め……


 その表情が、俺にはとても可愛く見えたのだ。
 体調最悪じゃなければ、ぎゅっと抱きしめて、そのままベッドに引きずり込みたいくらいに。
 その表情の、どこがどうそれほどツボったのかと問われれば、説明は難しいのだけれど。

 もちろん、もっと解りやすい例だってたくさん挙げることはできる。
 俺のライブを見つめる、緊張した表情や。
 ほろ酔いの、ほんのり紅く染まった頬や。
 ベッドの中での、説破詰まった喘ぎや……

 アパートの階段を下りながら、ぞく、と寒さから来たものではない震えを感じた。その震えは背筋を
駆け下り、尾てい骨のあたりに熱くこごった。掌に、滑らかで温かな素肌の感触が蘇ったのだった。
 前回彼女に触れたのは、いつのことだっただろう、と考えてみて、2ヶ月以上も前になることに気づき、
一瞬足が止まった。いつの間にかそんなに経ってしまっていたのか!
 その間、彼女への欲望が高まらなかったのか、と訊かれれば、無かったわけではないのだが、やはり歌と
仕事で心身共に目一杯だったから、衝動をスルーさせているうちに、いつの間にか2ヶ月も……いや、
トシのせいではないと思う。多分。

 でも、今夜は。
 明日は、俺的には待ちに待った休日だし、幸いにして日曜でもあるから彼女も仕事が無いので、
一晩中でも睦み合っていることができる。うんと時間をかけて、丁寧に、しなやかな体の隅々まで、
じっくりと可愛がって……

 と、そこまで考え、思わずうっとりしかけたが、ゴミ集積場の臭いに、現実に引き戻された。
管理人さんがいつも綺麗にはしてくれているのだが、臭いはどうしても多少残っている。
 ゴミ袋を、金網越しにカラスに荒らされないように、それぞれ所定の場所のなるべく奥に放り込み、
きっちりかけ金をかける。


 ベッドに入るその前に、もっと大事なことがある。
 今夜は、彼女に話さなければならない大事なことが、山のようにあるのだ。

 インフルエンザは、俺の身体と仕事には大きなダメージを与えたけれど、はからずも狂乱の1ヶ月を
反芻し、来し方行く末をじっくりと考える機会を与えてくれた。
 音楽のこと。
 仕事のこと。
 彼女のこと……
 

 じっくり考えて出た結論は、決断すべき時期がやってきているということだった。


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