確信犯7
 

 水を買ってコンビニから出ると、三浦はベンチで眠りかけていて……それをホテルまで連れ帰るのが

一苦労で、それでその時の会話は頭から抜け落ちてしまっていたのだけれど。


 唇を噛みしめ、涙を堪える彼女に何と言えばいいのだろう?


 晃は脳内の語彙ファイルを必死でめくった。


 君は、俺にとって俺自身より大切だから。

 だから、こんなことで自分を損なったりしないで。

 もっと、自分自身を大切にして―――

 今までのように、そう言えばいいのか?

 それだけで伝わるのか―――?


 と、晃の目に、白い頸に点々と散る赤紫色の痣が飛び込んできた。

 晃自らがつけた印。

 そして晃は、美誉子の手を、自分が力一杯握りしめているのにも気づいた。

「ご、ごめん……痛かっただろ」

 慌てて力を緩める。

「ううん……」

 美誉子は頸を振ったが、強く握り続けられていた手は蒼白だった。痺れているかもしれない。

 晃は片手を離し、美誉子の額に手を伸ばした。

 美誉子はわずかに身を引いたが、晃は構わずに前髪を掻き分け、額の右側の傷痕を探した。普段は殆ど

見えなくなった傷痕も、興奮しているせいか、今夜はピンク色に細く盛り上がっていた。


 これも……俺が負わせた傷。

 そして今夜も、彼女に随分痛い思いをさせてしまった、


 俺は、彼女を本当に大事にしてきたと言えるのか?


 君の躰は俺にとってとても大切だから、君自身も、もっと大事にして欲しい。

 そんなことを俺が言えるのか?

 言葉の問題じゃないのかもしれない。


―――俺は、彼女の傷の本質を、全く理解していないのではないか?


 

 夜の港の突堤で、三浦の熱さと強さを感じた時。

 美誉子は、自分が縛り付けていたのは、晃だけではなかったと知った。


 私は―――ずるい。

 卑怯だ。

 解き放たなければならない。

 ふたりを。

 そして、それが出来るのは。

 今夜。


 だから言った。

―――抱かれたら、諦めてくれる?

 にらみ付けるように美誉子を見つめていた三浦の視線が、激しく揺らいだ。

 夜の海が波立つかのように。 

 忘れてくれる?

―――ああ。

 掠れた声で返事が返ってきた。


 突堤に押し倒された美誉子の視界には、満月に近い月。


 月が見ていた。

 

 ためらいがちに額に触れた指先に、そして痕を見つめる悲しげな視線に、美誉子は晃の動揺を感じた。


……また思い出させちゃったかな。


 まだこの傷痕がはっきりと残っている頃、晃はそれを目にするたびに苦しそうな表情をしていた。

実母の死と、自らの自殺未遂と、そして美誉子に傷を負わせてしまったことを、これを見る度に

思い出してしまうようだった。

 だから美誉子は、傷痕がなるべく晃の目に触れないようにと、この8年間常に前髪を厚目に下ろしてきた。

 それでも―――

 この人は、私がそばにいれば、昔のことを思い出してしまう……

 そのことだけでも、自分が晃のそばにいることが果たして最善なのかどうか、美誉子は疑問に思うのだ。


「……美誉さん」

 額におかれていた指先が、すうっと頬に降りてきた。

 思い詰めたような眼差し。

「一緒に病院に行こう」

「え?」

 唐突な晃の言葉に、美誉子は戸惑った。

「生理、おかしいんだって? 三浦にきいた」

 やだっ、三浦ってば、そんなことまで話したんだ!

 美誉子はうつむいた。

 しかし晃は、その顔をそっと仰向け、

「一緒に検査してもらおう」

 静かに言った。

「……一緒にって?」

「俺と、君で、子供が作れるか、一度ちゃんと調べてもらおう」

 ズシン、と晃の言葉が熱い塊のように胸の真ん中に落ちてきて、美誉子は思わず唇を噛んだ。

「婚約前に生殖機能の検査するのって、普通に有りだろ? ブライダル・チェックとか言うんだっけ?」

「でも……晃さんは、何も問題ないでしょ?」

 傷物なのは私だけで……

「分かんないよー。不妊で奥さんがひとりで悩んでたら、実はダンナのせいだったってな話、

良く聞くじゃん」

「そりゃそうだけど……でも、まさか晃さんが」

「俺の場合、エイズ検査が必要かもしれないからさ」

「えっ……」

 美誉子は思わず絶句しかけたが、晃は、くす、と、いささかつらそうに笑い、

「ってのは冗談だけど、でも、一緒に行こうよ。もし、妊娠し難いって診断を受けちゃったら、俺だって

一緒に治療を受ける身なんだしさ。基礎体温法でも、人工授精でも、とことんまでやってみよう」


 晃さんは楽天的に事態を見ている、と、美誉子は思った。

 自分の生殖能力に疑問を感じ始めてから、美誉子は不妊やその治療について、折に触れインターネット

などで調べてきた。そうして分かったのは、子供が欲しいのに授からない夫婦が、世間にはどれだけ

多いかということ。


「それでも……ダメだったら?」


 美誉子の生理は、不順になる前から平均より些か周期が長く、幾分不規則で、しかもここ数年かなり

重い……子宮筋腫の症状ではないかと恐れている。

 若年時の中絶に加え、筋腫……それだけでも不妊の条件としては充分ではないだろうか。それに加え、

ここ数ヶ月の生理不順……


「養子を取ればいい。俺だって、どうせ養子なんだし」

「養子って言ったって、晃さんはそもそも早乙女家の人なんだし……それとは話が違うんだもの、養子

なんて許されないかもよ?」

「許さないって、誰が?」

「晃さんの……家の人が。それから蔵の人たちも」

「どうしても許してもらえなかったら、家を出るよ」

「えっ、そんなの無理でしょ? だって……」


 晃がどれだけ早乙女本家の家族たちに恩を感じているか、美誉子は知っている。蔵を継ぐかどうかは

別としても、あの家にいて、祖父母と養父母と暮らし続けようと密かに心に決めていることも感じていた。


「あの家は好きだけど、でも、俺は美誉さんがいないと駄目だもん。何があったって、美誉さんを取るよ」

「晃さん、ダメだよ、そんなの」

 自分のせいで、晃と家族が断絶することなどさせてはいけない。

「俺が出て行ったら、悟兄か聖兄が慌てて帰ってくるだろ。順番としてはその方が正しいんだし」

「そんな乱暴な」

 美誉子の口を、頬に載せられていた手がそっと塞いで。

「そもそも、反対するわけないじゃん、うちの両親が、俺から美誉さんを取り上げるようなことを

すると思う?」


 確かに―――しないだろう。


 美誉子は喉元に渋滞していた言葉を飲み込んだ。


 8年前に、多くの深刻な問題を抱えた晃を、何のためらいもなく養子にしたほどの人たちだ。

傷ついている者を突き放したりすることは、絶対にしないだろう。

……だからこそ。

 自分でいいのだろうかと、そう考えてしまうのだが……


 頬に置かれていた手が、首の後ろに回り、そっと抱き寄せられた。

 美誉子はもう逆らわなかった。

「しっかし」

 晃の苦笑が耳元で漏れた。

 くすぐったかった。


 そして温かかった。


「美誉さんって、どーしよーもなくペシミストだよなあ。どうしてそう最悪のことばっかり考えるん

だろう? 検査してみたら、全然問題ないですよ、って言われるかもなんだぜ? ってか、その

可能性の方が全然高いのに」

「そんなことないよ……だって、生理不順は確かなんだもん」

「俺がそばにいたら、すぐに治るかもしれないよ? 少なくともメシは作ってやれるし、ストレスも

一発解消」

「また……そういう科学者らしからぬことを」

 美誉子も笑い、晃の肩に頬を載せ、ぎゅっと目を閉じた。


 晃の考え方は楽天的に過ぎると思えてならなかったけれど、それでも嬉しかった。


 一番大切な人が、自分の躰を真剣に心配してくれている―――それが無性に嬉しくて、胸が震えた。

 

 晃は肩にかかる美誉子の重みを嬉しく感じながら、その背中をゆっくりと撫で、言った。

「さっきの返事は、検査の後でいいよ。俺がエイズかもしれないからさ」

 肩の上から笑い含みの返事が返ってきた。

「そうだとしたら、私もとっくに感染してると思うけど」

「あはは、それはそうかもね……でもさ、返事を急かすわけじゃないけど、早く病院に行った方がいい

よね。明日……ってわけにはいかないだろうけど、平日だもんね。土曜日にでも行くなら、また来るけど」

「えっ……」

 美誉子は、がばっと頭を起こした。

「そんなにすぐの話?」

 目を丸くしている。

「うん。だって、不順なんだろ? 早いほうがいいって」

 晃はできるだけ真面目な顔で頷いた。

「そうだけど……でも、佐渡で婦人科なんか行ったら、特に晃さんとなんか行ったら、それだけで

モノスゴイ噂になっちゃうかもだから、地元の市民病院でと思ってたんだけど。ほら、

武藤が今年度から産婦人科に異動したから」

 武藤は美誉子の中学時代からの友人で、地元N岡の市民病院で看護師をしている。

「ああ、そっか。でも、次にN岡に帰れるのって、いつ?」

「冬休み……」

 美誉子は肩をすくめて言った。

「そんな後じゃダメじゃん。じゃあ、とっとと新潟で行っちゃおう。俺が土日でも診察してくれるとこ、

探しとくよ。まずは大学病院で聞いてみようかな」

「晃さんが探してくれるの?」

「もちろん。予約もしておくから、来れる目処がついたら早めに教えてね。あ、検査前に1ヶ月分の

基礎体温とか記録しておかなきゃなのかなあ。そのあたりも問い合わせしとくし……」

 晃は当然のつもりだったが、美誉子は驚いた声で、

「ええっ、婦人科だよ、晃さん、抵抗ないの? 男の人が婦人科に問い合わせなんて」

「あのね、俺は母の乳ガンを看取った男だよ? 美誉さんのためならそのくらい何でもない」

 美誉子は感心したように、目を丸くしたまま、ほおっと溜息を吐いた。

「すごいね……晃さんって」

 また、ことり、と頭が肩に載せられ、

「ありがとう……なんか、感動しちゃった」

 美誉子の腕が、晃の首に巻き付いた。


……少しは伝わっただろうか。

 晃は、ふう、と静かに息を吐き出した。

 俺が、彼女をどれだけ大切に思っているか―――


 しかし、小さな声が言った。

「病院行くの怖かったんだけど……やっぱりどこか悪いですって言われたらショックだし……それに

思い出しちゃいそうで。晃さんが一緒なら大丈夫だよね、きっと」


 ああ……そうか、それもあったか。

 婦人科に行けば、そしてあの触診台に乗れば、思い出してしまうかもしれないのか……


 晃はひんやりとした髪に、そっと頬をつけた。


 俺ってやっぱり分かってないかもしれない……

 ごめん、気づかなくて。


 そう言う代わりに、

「触診の間、ずっと手握っててあげようか」

 そう言った。

「やだあ、そんなの、出産の立ち会いじゃあるまいし」

 美誉子は晃の肩に頭を載せたまま笑った。

「その本番の練習ってことでさ」

「えー、晃さん、立ち会えるの?うちの兄貴なんて、香誉の時にぶっ倒れそうになったから、

双子のときは立ち会い止めたんだよ? まあ、どのみち帝王切開になっちゃったんだけど」

「大丈夫。俺にはきっちり愛があるから、血を見たってぶっ倒れたりしない」

「それとこれとは話が別みたいよー」

 美誉子の声が幾分明るくなり、強張っていた躰がほぐれてきたのを感じ、晃は安堵した。


……少なくとも、病院に行く気にはなってくれたようで、良かった。

 結局、プロポーズの返事は聞いてないけど、まあ、それは検査してから改めて、だな……


 どうだ、三浦。

 言ったぞ、ちゃんと。

 病院に連れて行けそうな感じになってきたぞ。


 君が大切だと、伝えたぞ―――

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