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 ネクストバッターズサークルからゆったりと歩いてきた彼は、審判とキャッチャーに軽く頭を下げて
挨拶した。その様子を見てる限りでは落ち着いてるっぽいけど、こんな大チャンスで打順が巡ってきて
しまって、お腹は大丈夫だろうか。
 いやここで打てなくたって、誰も渡瀬を責めるようなことは無いだろうけど。さっきの守りで見事に
火消しを務め、それで役割は立派に果たしているのだから。

 でも、打って欲しい。
 彼が打つのを見たい。
 田沢くんも見たいと思っているだろう。
 もちろん、N高の応援団のみんなもそうだろう。
 私たちの回りにいる、バックネット裏の高校野球オタクの観客も、身を乗り出して彼に注目している。
 もしかしたら、相手チームの応援団以外は、この球場丸ごとが、彼に打って欲しいと思っているかも
しれない。

 いつの間にか、胸の上で堅く手を握り合わせていた。
 祈っていた。

 彼はベンチをじっと見てサインを確認してから、左バッターボックスに入り、大きくゆっくりと
バットを回し、構えた。足を広めに置き、僅かに腰を落とす。長めに持たれたバットは、
垂直に近い角度で顔の横に立てられる。

 とても、静かだ。

 球場は、N高のベンチと応援団をはじめ、バックネット裏まで大盛り上がりなのに……背後から、
「いい体してんだから、一発飛ばしてけよー!」
という塩辛声の応援だかヤジだかが飛んで、どっと笑いが沸いたりして……でも、彼だけはとても静か。
まるで見えないシェルターに守られているかのよう―――

―――そうか。
 彼は、今とても集中できているんだ。
 今、彼の周囲に張り巡らされたシェルターに触れたら、ビリッと火花が散るかもしれないってくらい、
怖いくらい集中している。
 緊張を通り越した、集中のさなかにいる。

 打つかも。
 ううん、きっと打つ。
 こんなに集中できてるんだもん、きっと打てる!

 ピッチャーが振りかぶった。
 バッターとしての渡瀬のデータは、相手チームにどの程度蓄積されてるのだろうか。春から
公式戦に代打として何度か出ているから、それなりに打てるってことは知られているだろう。
 けれど満塁だ。いくら大勝してるったって、ストライクを投げ込むしかないんだから―――

 1球目はフォークがワンバウンドしてボール。彼はピクリとも動かなかった。
 ふう、と隣からしんどそうな溜息が聞こえた。私も気づけば、肩にバリバリに力が入っている。
 2球目はここから見ると微妙に外すぎる感じだったが、ストライク。これも彼は余裕を持って
見送った。変化球だったっぽい。
 3球目は高めにすっぽ抜けたようなボール。ピッチャーがマウンド上で袖で顔の汗を拭った。
 田沢くんがひとりごとのように。
「次はストライク取りにくるだろ。渡瀬は何を待ってるか……」
 そうか、渡瀬は目もいいけど、基本的に読みで振ってくタイプだから、狙い球は決めているのだろう
けれど。
 4球目は高めの速球だったが、彼は初めてバットを振った。カチン、と鈍い音がして、
バックネットにザスッと重たそうな打球が突き刺さった。
「やっぱし速球狙いなんだろな」
 バックネットにファウルボールが当たった衝撃に私は思わずびくりとしてしまったが、田沢くんは
さすがに全く動じず、小さく呟いただけで、じっと渡瀬に目を据えたまま。
 これでツーツーの平行カウント。満塁でフルカウントにはしたくないだろうから、多分次も
ストライクを投げてくるだろう。
 彼はタイムを取り、初球の前と同じバットを回す動作を繰り返してから、バッターボックスに
入りなおした。ピタリと構えが決まり、また触れたら感電しそうな静けさが全身に漲る。
 サインの交換には少々時間がかかったが、彼はその間ピクリとも動かなかった。
 ピッチャーがふりかぶる。
 ごくり、と唾を飲み込んた音が、やたらと頭蓋骨の中で反響した。
 バネのようにしなるサイドハンドから、ボールが離れた。

 次の瞬間。

 キイン。

 氷のように澄んだ音が、歓声を圧して球場に響き渡った。
 白球が速いスピードで、夏空に一直線、突き刺さるように飛んでいく。
 とても美しい放物線。
 美しすぎて、背中にぞくぞくと寒気が走る。

……うわ、まさか、ホームラン?

 脳が自動的に、球場の広さとフェンスの高さ、打球の角度から落下地点を計算する。微妙な
ところか。外野フライでも1点は入るから、最悪それでもいいのだろうが……でも。

「入れーっ!」
 田沢氏が叫んで立ち上がった。
 私もいつしか立ち上がり、叫んでいた。
「入ってーっ!」

 お願い。
 お願いだから……
 どうか、入って!

 しかし祈りは微妙なところで届かず、打球はフェンスに当たった。しかしN高ベンチは思い切った
エンドランをかけていたらしく、ランナーは3人共ホームに駆け込み、渡瀬も2塁に到達していた。
 走者一掃の2塁打、これで6―10だ!
 2塁ベース上で、渡瀬が両手を上げた。
「きゃーっ!」
「やったーっ!」
 ハイタッチでは嬉しさを表現するのには到底足りず、田沢くんとがばっと肩を組み合って、渡瀬に
応えるように手を振り上げ、跳ねた。
 球場全体が大騒ぎで、まるで揺れているかのよう。

 すごい。
 すごいよ渡瀬!
 こんな場面でこんなキレイなヒット!!
 こんなに球場を沸かせられる、すごいプレーができるようになってたんだね。
 ヤバイ、感動しすぎて、泣きそう……

「……うわ、ヒミコちゃん、ご、ごめんっ」
 視界がぼやけてきたところで、田沢くんに急に組んでいた肩を引きはがされ、遠ざけられた。
「え? 何がごめん?」
 何を謝ってんの?
 田沢氏は、わざとらしく咳払いしながら席に座り直し、
「いや、肩組んだりして……」
 私も慌てて座ったが、田沢氏は微妙に顔を背けている。
 およ、心なしか赤面しているような……めーずーらーしー。
「なんで? 全然構わないけど?」
 感動を分かち合うのに、肩組むくらいフツーでしょー?
「構うだろ。一応彼氏の前だぜ」
 アレ、と田沢氏は細い顎でグラウンドの方を指した。
 あ、そういうことね……
「見てたぞ、アイツ。後で謝っておきなよ」
「えー、見えたかなあ? たとえ見てたとしたって、こんくらい怒らないよう」
 なんたって渡瀬のヒットに感動しての行為なんだし、相手は男子ったって、田沢氏だし。
「顔で笑ってても、腹ん中で怒ってそうだろ」
 そおかなあ?
「俺も謝っとくからさ、頼むよ……あ、5番も強打者だからね、期待していいよ!」
 5番打者がバッターボックスに入ったのをいいことに、田沢氏は急に話を逸らし、膝の上にノートを
開き直すと、グラウンドに目をやった。わっざとらしー、とは思ったが、私もグラウンドに集中を
戻すことにした。先程まで……渡瀬のヒット前とは全く違う、現実的な期待感を大いに抱いて―――




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