Mistake


 思い出してきた。
 そうだ、ここ感じるんだっけな、彼女は。
 汗ばんだ脇の下から二の腕の裏にかけて、舐め上げる。
 ぽってりとした唇から、なまめかしい吐息が漏れ、すっぽりと俺を包み込んでいる、彼女の中がきゅっと締まる。
「感じやすいな、相変わらず」
 3つもピアスがついた耳にそう囁くと、
「尚くんが、上手くなったんやないの?」
 セクシーな関西弁が答える。
「そうだといいけどな」
 ピアス穴は、学生の頃は確か1個だけだったような。



 彼女とは大学時代に1年ほどつきあっていた。同じ大学の同じ学部の学生ではあったが、学科が違ったので、3年生の就職活動の時期まで言葉を交わしたことさえなかった。それが、たまたま同じ出版業界を目指していたため、就職活動中はセミナーや講習で一緒になることが多く、それがきっかけでつきあい始めたのだった。好きとか萌えとかそういう感情より、不景気の中で就職活動を乗り切るためのパートナーというか、同志という感覚だったような気がする。
 だから、お互い就職が決まり―――俺は希望通りに東京の文芸系の出版社に、彼女は地元大阪の情報誌に―――卒業すると、当たり前のように会わなくなった。
 殆ど没交渉のまま、卒業して5年余りが経った頃、いきなり彼女から電話が入った。
 来週、東京に出張なんやけど、会わへん?
 と。
 仕事的には忙しい時期ではあったのだが、何とかやりくりして、今夜会うことが出来た。夕方に待ち合わせ、銀座のビア・ホールで食事をし、立ち飲みの老舗バーで気分を盛り上げ、そして、シティ・ホテルへ。
 学生の頃はこんなリッチなデートはもちろんしたことはなかったけど、今夜は自然な流れでここまで来た。
 つまり、彼女も俺も、こういう大人のデートが自然な年齢になったということだろう。


 少しだけ、学生の頃より肉付きが良くなったかも、と乳房に舌を這わせながら思う。俺は、自分がやせっぽちだからかもしれないが、女性は痩せてりゃいいとは思わない。彼女の場合は、学生の頃は
ちょっと痩せすぎって感じだった。
「おっぱい大きくなったんじゃないの?」
 そう囁くと、
「それ、太ったって言いたいん?」
 笑い混じりの返事が返ってきた。
「違うよ、ちょうどいいんじゃない、今くらいが」
「体重はあんまり変わってへんねんけどねえ」
 乳首を舌先で転がすと、ふぅん、と甘いため息。
 オヤジ風に表現してみれば、熟れた躰、ということになるんだろうか。
 また、言ってしまうけど、そういう年齢なんだ。俺ももう28歳だし、一浪してる彼女は29歳だ。



―――でも。
 ふと、思い出してしまった。
 アイツの躰は、熟れてるという感じではなかった。まだ少女のような、少年のような、ほっそりと、むしろ骨張った躰だった。同い年だというのに。
 清楚で美しい躰だった。



 うわ、やべ。
 なんで、こんな時に、アイツのことなんか思い出してしまうんだ。
 軽く頭を振って、アイツのイメージを追い払う。
 一度中から出て、火照った体を裏返し、バックから再度挿入した。
 彼女がバックが好きだったことを思い出したから。
 四つんばいになった彼女の胸に右手を、左手は敏感な突起に添えながら腰を軽くグラインドさせる。
「あ…んんっ」
 ゆるゆると責め立てていた効果が現れてきたらしく、彼女の嬌声が高くなり、接合部がいやらしい音を響かせ始める。
 覚えてるもんだよな、6年近くも前なのに。それに、彼女とつきあってた時期って、ふたりともやたら忙しかったから、1年もつきあってた割には、セックスは10回、とは言わないが、20回くらいしかしてないんじゃないかな。一緒に旅行とかも行けなかったし。
 それなのに、躰が憶えてる。


 だから―――無理もないよな。思い出してしまうのは。だって、アイツとのことは、ほんの2年半前のことだ。



「はあんっ……」
 彼女の頭がくたりとベッドに崩れ落ちた。肘から力が抜けてしまったらしい。
 でも、腰は高々と上げられて、時々俺を急かすように蠢く。



 アイツにも、バックからこうして責めてやれば良かったかな。そうすれば、もう少し乱れてくれたのかもしれない。
 汗が胸の谷間に玉になって光っていても、畳に染みができるほど濡れていても、アイツは抑えた喘ぎしか漏らさなかった。
 いや、でもアイツ、身長が俺とほとんど変わらないから、この体勢は苦しいかな……

 

「尚くんっ……」
 彼女が喘ぎながら俺を呼んだ。
「ん?」
「やっぱり……上手くなったんちゃうの……」
「どうだろうね」
 いつの間にか足下に移動していた枕を、彼女の顔の下に入れてやる。
「ああ……もう、あかん……」
 彼女はぎゅっと枕を抱きしめた。
「いきそうなの?」
「うん……もう、いっちゃう」
「いっていいよ」
 そう言いながら、腰の動きをアップする。
「あんっ……ああ、いくぅ……」
 彼女の中が、痙攣するように締まった。



 アイツも最後にはイッてた……と思う。あの千切れそうな締まり具合からして。
 でも。
 アイツは、その瞬間、細い悲鳴を上げただけで。
 いや、小さな声で言っていた。
―――ごめんなさい。
 と。


 ごめんなさい。


 その言葉が耳に入った瞬間、俺は悟ったのだった。
 誰に謝ってんだよ!?
 そう思ったが……俺には、本当は分かっていたのだ。
 アイツは、同時にふたりに謝っていたのだ。



 腰を思いっきり叩き付ける。
 湿った音と、肉のぶつかる音。
 嬌声。


 
 今夜限りで、忘れてくれるなら……
 アイツはそう言って、あの夜、俺の欲望を受け入れたのだった。
 忘れる……少なくとも、忘れるように努力する。
 俺はそう言った。
 そして、その言葉通り、忘れるように努力した。
 ちゃんと、努力はしたんだぜ……でも。



 美誉……



 たっぷりと白い液体が溜まったゴムの始末をしていると、俺の背中に彼女が冷静な声で言った。
「ミヨって誰?」
 え。
「何で……」
 何で彼女が、美誉のことを知っている?
 思わず振り向くと、ぐったりとベッドに倒れ込んでいたはずの彼女は、頸だけ起こして、微妙な、
目が笑ってない凄みのある笑顔で、俺を見据えていた。
「今つきあってる彼女なん?」
「いや、今つきあってる人いないし……ねえ、な、なんで、その名前を……」
「なんでって」
 彼女は呆れたようにまばたきをして。
「尚くん、今、名前呼んだやん。イッたとき」
 げっ。
「……俺、そんなこと、言ってた?」
「言うてたって。小さな声やったけど、耳元で言われたら、聞こえてまうやんか」
うっわぁ。
心の中だけで呟いたつもりが、口に出ちまってたってか?
「失礼な話やわ」
「全くです……ごめんなさい」
 全くもって失礼な話だと思ったので、頭をシーツに擦り付けるように下げた。
「元カノかなんかなん?」
「いや……」
 大学を卒業してから、継続的にちゃんとつきあった彼女ってのはいない……5年も経ってるのに。と、それに気がついて、今更のように愕然とする。
「昔、好きだった女」
 愕然としつつ、シンプルに答えておく。
「へえ、昔っていつ?」
 突っ込まないで欲しい……
「高校ん時」
「えっ。そんな前?」
 細い眉が顰められた。
「高校時代の彼女ってこと?」
「いや……片思いしてただけ」
「しつこっ。そんなに諦めきれんの?」
「いや、諦めてるんだけどな、忘れてたんだけど」
 忘れようと努力してたんだけど。
「その娘の婚約者がな、俺の高校ん時の友達でもあってさ。ここ去年から彼氏の方と、仕事で関わるようになっちまって、それでその娘とも時々顔会わせる羽目になっちゃって」
「そんで顔見たら、また好きだった気持ちが蘇ってまったとでも言うのん?」
「……ううん、蘇ったとまでは言わないけど、思い出しちゃったってか」
「うっわー」
 彼女は呆れたというような声を上げて。
「それって、なんか、あたしにとっては、ますます失礼なような気がするわ。あたしかて、久々に会う昔の女やで?」
 そうかも……
 彼女の言うとおりなので、俺は頭を下げたまま、言った。
「ホントにごめんなさい……滝に打たれて修行してきます」
「滝?」
 シャワー。



 熱い滝……シャワーに打たれながら、反省した。
 ホントに失礼なヤツだよなあ、俺。セックス中に他の女の名前を呟いてしまうとは……
 うー、いかんいかん。
 ゴンゴン、と風呂場のべこべこの壁に頭をぶつける。
 忘れようとしたんだ。努力したんだ。
 それなりに忘れてられることだってあるんだ。
 その証拠に、大学生の頃は、今ベッドでふてくされてる彼女含め、"彼女"と呼んでいいようなつきあいの女の子も何人かいた。就職してからは、決まった女の子と継続的につきあったことはないが、昨年から今年にかけては、ガールフレンドというか、セフレに近いような存在の女の子がいたし。(その子に彼氏ができたので、俺は当然身を引いた)その子たちのことは皆好きだったし、一緒にいる時間は楽しい。

 
 でも―――まだ。
 時々思い出してしまう。
 殊に、会ってしまうと。
 過去のものであるはずの情熱が、映画のように思い出のスクリーンに過ぎる。



 いいかげんにしろ!
 諦めると誓ったはずだ。
 それが、俺がアイツにしてやれる、唯一の優しさだろう?



 バスルームから出ると、彼女がベッドサイドに立って、俺の携帯を手にしていた。
「おい、人の携帯いじるなよ」
「ちゃうよ、電話かかってきてて、ずっとしつこく振動してたから、留守電かメッセージにしたろかと思って見てただけやん」
 彼女は顔をしかめてみせると、俺のまだ濡れた手に携帯を乱暴に渡した。
「え、電話きてたのか」
 メールでなくて電話ってのが嫌な予感。
 そう思いながら着信履歴を見ると。
「うげ」
 思わず変な声が出てしまった。
「悪ぃ、作家先生からだ……ちょっと電話するな」
「はいはい、もう、どんな失礼かまされても驚かんよ」
 彼女はひらひらと手を振ると、ベッドに入り直した。
「煙草、吸ってもいい?」
「ええよ。あたしが嫌やゆうたことあるか?」
「ありがと」
 煙草に火を点け、一口大きく吸い込み、ニコチンを全身に行き渡らせると、少し気分が落ち着いた。
 リダイヤル。
『……はい』
 コール2回でものすごく不機嫌そうな声が出た。
「……文星社の三浦でございますが、森島先生でいらっしゃいますか?」
 極力下手に。
『そーですよ』
「お電話頂きましたようで……」
『夜分遅くすいませんねぇ、電話しちゃって』
 マジ、機嫌悪いぞ、これは。
「あの……ご用は何でしたでしょう?」
『うっとーしー敬語、わざとらしくいつまでも使ってるんじゃねえよ』
 電話の向こうの森島は、イライラと。
「……で、何?」
『ゲラが一枚足りない』
「え」
 今日、彼女と待ち合わせる前、会社を出る寸前に、来月出版予定の短編集のゲラを、森島の自宅にファクスした……いや、させたのだ。バイトくんに。全部自力で送ってたら、待ち合わせに遅れそうだったので、頼むだけ頼んで、先に退社した。
 原稿のやりとりはもちろんデータでやっているが、本になった時の体裁をイメージし易くするため、ゲラは紙面で見たいという作家は多い。森島もそうだ。
『234ページが抜けてる。総枚数も足りない。3回数えましたがね』
 うげ……
『念のため、ファクスの受信履歴も調べましたけどねっ、やっぱり一枚足りないんスけど』
 森島の声は、段々凶悪さを増してくる。
「……悪い。申し訳ない……」
 これはやはり、バイト君に任せてしまった俺の責任だろう。
「明日の朝イチで送るよ」
『明日ぁ?』
 殆ど怒りに近い返事が返ってきた。
「ダメ?」
『俺はいいんだけどねぇ、明日の朝送ってもらっても、次ゲラ見られるのは、4日後になっちゃうだけで』
「えっ、なんでだよ?」
 明日中に直したゲラを宅配便で送ってもらって、明後日受け取る予定でやっているはずなのだが。
『明日から、実験で大学泊まり込みだって、言わなかったっけか?だから今日までに全部送ってもらうスケジュールにしたんじゃなかったっけ』
「あ……」
 そうだった……
「い、1ページくらい大学でできない?」
『できないし、やらない』
 森島は、断固として大学に小説の仕事を持ち込むことをしない。頭の中で構想を練っていることはあるのだろうが。
「うう……」
 困った。
『なんだよ、三浦、今夜に限ってもう会社にいないの?』
 確かに、忙しい時は夜半過ぎまで会社にいることも珍しくないが……
「いないんだ……たまたま」
 電話の向こうで溜息が聞こえた。
『明日の朝、7時までに送ってもらえれば、何とかなるかもだけど』
「……いや」
 仕方ない。
「今から会社戻って、送るよ。悪いけど、ちょっと待っててくれな」
 俺のミスだ。
 そして、こんな下らないミスで森島との関係にヒビを入れたくはないし、初短編集にケチをつけたくもない。
 森島有人はデビューから2年近く経つが、長編を1冊しか上梓していない。つまり、デビュー作のみ。その1作で消えてしまう作家も珍しくはないけれど、そうしたくないし、そうするには惜しい才能だと思う。俺の担当作家としては、初めての新人でもあるし、何とか育てていきたいと思っている。
 森島は兼業作家だから、なかなかまとまった執筆の時間がとれず、2作目の長編も書き始めてはいるのだが、じりじりとしか進んでいない。そこで、本業の合間合間に尻を叩きまくって雑誌に書かせた連作短編がやっと4作溜まり、それに書き下ろし中編を1本加え……これを書かせるのも大変だった……ようやく2冊目の出版にこぎ着けたのだ。
 こんなくだらないミスで、森島の書く意欲をそぐような事態にはしたくない。
 この夏の結婚式までには、短編集を出してやりたい―――
『大丈夫なの?』
「うん、幸い、会社から近いトコにいるし」
『ふぅん……デート中だったり?』
……今も昔も嫌なヤツ。
「どーでもいいだろ、じゃ、またファクスする前に電話するから」
『ああ、悪いけど、頼むな』
 電話を切り、灰が落ちそうになっていた煙草を灰皿でもみ消し、おそるおそるベッドを振り向く。
 きっとさぞかし彼女も険悪な……
 と思ったら。
 好奇心丸出しのらんらんとした目で食いついてきた。
「なぁなぁ、森島って、あの森島有人?覆面作家の?」
 あちゃ。森島の名前口に出したのヤバかったかな。彼女も地方タウン誌とは言え、出版界の人間だもんな、ピンと来てしまうか……
 ううむ、でも、今更否定もできまい。
「そうだよ」
「へぇ、尚くん、担当なん」
「ああ、たまたま、高校の同級生で、押しつけられてしまった」
「そうなんや……ああ、タメ口たたいてたもんね、と、すると……」
 彼女はちょっと天井を見上げて考え込んで。
「もしかして、さっきのミヨって娘の彼氏が森島?」
 げげっ……
 何で今夜はこんなにみんなカンが良いんだ……ってか、俺が無防備すぎるのか?
「そうなんや」彼女は返事できないでいる俺の顔をみてにやりと笑い。
「ねね、森島ってどうして覆面にしてるん?」
「ミステリ作家なんかに、そんなに興味あるの?」
 彼女がミステリを愛好していたという記憶は無い。俺はミステリ研の鬼編集長と呼ばれた男だが。
「覆面ってとこで興味が出るんやん。あの授賞式でのわざとらしい変装も、印象深かったしぃ。サングラスに長髪ヅラで授賞式出るんかいって感じで」
 森島は当社の文星ミステリ新人賞でデビューしたのだが、当時から本名・経歴・顔を隠した覆面作家を通している。
 但し、あの長髪はカツラでなくて、地毛だったのだが。
「いい男そうなのに、どうして顔隠してるん?」
「本業が、あんまり顔出したくない職種だからだよ」
 それだけではないが……
「ふうん、公務員かなんか?」
「そうそう」
 あながち嘘ではない。
「そうなんや」
「あの……広めないでね。森島の婚約者がどーのこーのとかって……」
「広めるかい、そんなこと」
 俺の言葉を彼女は笑い飛ばして。
「ほら、早く服着て。会社戻るんやろ」
「ああ……ゴメン、ホントに……」
 俺ってば、今夜は彼女に失礼なことばかり……
 慌てて着替えながら、
「そうだ、せめてホテル代奢らせてくれよ」
 そう言うと、彼女はひらひらと掌を振って。
「ここくらいだったら出張旅費で出るから、かまへんよ」
 ガーン。
 ホテル代奢ることすらできないのか。
 こんなことになるなら、もっと豪華なホテルにして、奢らせてもらうんだった。
「いつか、この埋め合わせはきっちりさせてもらうから、また連絡くれよな」
 シャツのボタンを止めながらそう言うと、
「そうやねえ、がっちり埋め合わせしてもらわなあかんねえ」
 まだベッドに寝転がっている彼女はそう言って、にやりと不吉に笑った。



 その夜の、俺の数多いミステイクの中で、最もヤバかったのは、と考えると、やはり、彼女に携帯を見られてしまったことだったろうか。

 いや。
 アイツの名前を呼んでしまったことだったろうか……



 そう思い知ることになるのは、しばらく後のことだが……  
 (FIN.)