1回

 デッキにハイヒールの硬質の足音が響く。
 園子は仙台駅のペディストリアン・デッキ上を大股に、足早に歩いていた。
 ふんわりと決まったセミロングヘア、シンプルなノースリーブの白のブラウスに、お気に入りの「組曲」の紺のパンツ。バッグはさりげなくプラダ。鎖骨のくぼみには小さなダイヤのネックレスが光る。28歳という年齢にも、弁護士秘書という職業にも相応しい、清楚で、活動的で、隙のないファッション。
 しかし、その顔には感情が露わになっていた。ヌードベージュのルージュが剥げかけた唇はきつく噛みしめられ、涙で潤んだ目は、濃く塗られたマスカラとアイラインを滲ませはじめていた。
 そして園子の右頬は、微かに赤く腫れていた。
 時刻は夜10時を回ろうとしている。真夏日だった仙台だが、夜になると海風がみるみる気温を下げ、この時間ともなればノースリーブからむき出しの腕がひんやりするほど。涼しくなったのを待っていたかのように、夜のペディストリアン・デッキには大勢の若者がたむろし、その間をサラリーマンやOLが帰宅を急ぎ足早に通り過ぎる。
 園子も自宅へ向かうバスに乗るために、デッキ下のバス停へと向かっているわけだが、足が習慣をなぞり自動的に目的地へ向かっているだけで、意識は全く別のものに囚われていた。
―――紹介された時には、あんな男だなんて、思いもよらなかったのに。
 園子は先ほどまである男と会っていた。
 上場企業の企画部員で、背も高くて、センスも良くて、素敵な人だと思ったのに。
……ううん、違う。
 園子は自分の意識に、小さく頸を振った。
 そんな外面に惹かれたわけじゃない。優しかったから。紳士だったから……ついこの間までは。
 男との最初のデートは市内のホテルの展望レストランだった。男は席まで園子の腕を取り、園子が席に着くまでは決して自分は座ろうとせず、テーブルに着いて後の優雅なワイン・テイスティングといい、食事のマナーといい、完璧なエスコートだった。
 そうか……
 園子は一層固く唇を噛みしめた。
 それも外面なんだな。上辺だけの優しさや、紳士面にごまかされてたんだ。
 結局、あたしの男を見る目が無いってことじゃない。
 気づくのに1年もかかってしまった。
 ズキ、と腫れた頬が痛み、園子はそこを掌で押さえた。
 あんな男に一年も……
 痛いのは、頬よりも、胸だということに気づく。
 その時。
 歌声が耳に飛び込んできた。
 ペディストリアン・デッキの上には、毎夜のように、特に夏場はストリートミュージシャンが何人も立つ。たまには玄人はだしの歌い手を耳にしたりすることもあるが、多くは箸にも棒にも引っかからない、学生の道楽に毛の生えた程度の演奏ばかりなので、園子はいつも殆ど足を止めることはない。
 しかしその夜は。
 その歌は。

 ねえ そんなに
 別れた彼のことを
 悪くいわなくたっていいじゃない

 だって
 彼がいたから
 今 君は
 今 僕の横にいる

 彼がいたから
 今の君は
 こんなに素敵になれたんだよ

 歌詞の方から耳に飛び込んできた。
 痩身の男性が一人、デッキの手すり際に新聞紙を敷き座っている。白無地のTシャツに、色あせたブルージーンズ。年齢は園子より少し下くらいに見える。膝の上にはフォークギター、口元にはホルダーにセットされたブルースハープ。
 そのブルースハープで男性は間奏を吹き始めた。
ジャンルとしては、フォークロックの範疇に入るんだろうか、などと園子は漠然と考えながらも、ブルージーなメロディに引き寄せられるように、その男性を囲む30人ほどの聴衆の輪に加わった。
間奏が終わり、再び歌声が流れる。
園子はその歌声と詞に立ちつくす。
大きな声でもないのに、むしろ囁くようなハスキー・ヴォイスなのに、耳の中をその声はひたひたと満たしていく。ストイックな、淡々とした歌い方なのに、声の甘さは隠しようがない。


ねえ そんなに
別れた彼のことを
悪くいわなくたっていいじゃない

だって いつか
君が僕とさよならしたら
僕も君に
悪く言われちゃうのかなって
悲しくなるよ

だって 君は
今 僕の横にいる
今 僕だけを見てる


消え入るように歌は終わり、拍手の中、男性は立ち上がると深々と頭を下げた。そして、
「今夜は以上です。ありがとうございました」
 と突き放すように言った。歌声とはうって変わって、話す声は硬質で低めだった。観客の、市内の進学校の制服を着た女子高生グループからは、えーっ、という不満の声が上がったが、男は構わずにギターを片づけ始める。諦めたかのように観客の輪がほどける。去り際に男に話しかけ、幾ばくかの小銭を渡していく者もいる。男はそんな観客に、小さな声で、ありがとうございました、と礼を言いつつ小銭を受け取っている。
 男性は楽器も楽譜も、敷いていた新聞紙も片づけ終わり、すっかり撤収の用意を調え、もちろん聴衆も全て去ったが、それでも園子は動けずに立ちつくしていた。
 立ちつくし、泣いていた。
「……どうかしましたか?」
 男性が静かに聞いた。
 真っ黒な短髪の前髪の間から、黒目勝ちの子犬のような、しかし冷静な目が園子を見つめた。
「あ……うわ、ごめんなさい」
 園子は自分が泣いていたことに気づき、慌ててポケットからハンカチを出して顔を拭った。
「ごめんなさい、あんまり今の歌が、今夜のあたしの心境にピッタリで」
「最後の歌ですか?」
 男性の問いに、園子は頷き、
「オリジナルなんですか?」
 訊き返すと、男性は何か言いたげに口を開いたが、頷いた。
「ええ」
 答えてから、男性は園子の顔をぶしつけなほどまじまじと眺め。
「顔……ケガしてるんじゃないですか? 大丈夫ですか?」
「いえ……あ、はい」園子は慌ててハンカチで右頬を覆った。「ちょっとぶつけて。たいしたことありません」
「そうですか」
 男性は表情を変えずに言った。
「あ、そうだ……」
 園子は慌ててショルダーバッグから財布を取り出した。幾ばくかの歌のお礼をしようとしたのだが、その手を男性は押しとどめた。
「結構です」
 そして少しだけ笑った。
 目が細められ、薄い唇の口角が僅かに上がっただけだったけれど。
「泣いて下さったことが、僕にとっては最高の報酬です。ありがとうございます」
 その言葉に園子も少しだけ笑えた。
「お帰りはバスですか? バス停まで送りましょうか?」
 男性が、真顔に戻って言った。
「あ、いえ……大丈夫です。あなたの歌で、少し元気になりました」
「そうですか、なら良かった。じゃ、気を付けて。おやすみなさい」
 そう言うと、男性はギターを背負い、自分から園子に背を向けた。
園子はその細い背中に、おやすみなさい、と挨拶を返してから、歌を聴く前よりは幾分和らいだ歩調でバス停を目指した。

−◇−◇−

「遅くなりまして申し訳ありません、ウミネコ運輸です」
 事務所でひとり残業していた園子の耳に、インターホンから声が聞こえてきた。
「はーい、お待ち下さい。今開けますね」
 園子はインターホン越しに返答すると、オフィスビルの3階にある事務所の入り口ドアへと小走りに向かった。いちいち面倒ではあるが、法律事務所という性質上、セキュリティに気を遣うにこしたことはない。
 魚眼レンズから覗くと、見慣れたブルーのつなぎと揃いのキャップ。だが、いつもの担当者とは違う人物のようだった。園子の職場がある官庁街裏道の地区の担当者はベテランの四十代のよくしゃべるオトウサンという感じの人だが、今夜訪れたのはまだ若い二十代にしか見えない男性だった。
 夜だから担当者が違うのだろうか、そう思いながら園子はドアを開けた。反射的に壁にかかった時計を見ると、もうすぐ夜の八時になろうとしていた。
「すみません、遅くなりまして」
「いえ、こちらこそ即日で梱包と引き取りなんてお願いしちゃってすみません」
 ウミネコ運輸の社員は丁寧に頭を下げ、失礼します、と言いながら事務所に入ってきた。両手には梱包資材が入っているらしい、プラスチックのコンテナボックスを持っている。
 どうせすぐに大荷物を持って出て行くわけなので、園子は玄関の扉を開放したままストッパーで止めた。
顔を上げたウミネコ運輸の社員は、園子の顔を見て、
「あれ……あなたは」
 動きを止めた。
 園子も、その真っ正面の高さから見つめる黒々とした瞳に見覚えがあった。
「こないだは、どうも」
 男性はぺこりと頭を下げた。
「宅配便屋さんだったんですか!」
 園子も同時に思い出していた。
 三日前、ペディストリアン・デッキの上で出会った、ストリートミュージシャンだった。
 園子も慌てて頭を下げた。
「先日は、お見苦しいところを」
 あんなところで、見知らぬ男性の前で涙を見せてしまったことが、冷静になってみるとすさまじく恥ずかしかった。
「いえ、気になさらないで下さい。自分は何とも思っていません……お荷物はどちらですか?」
 男性は話題を変えるように、首を伸ばし依頼の荷物を探した。
「あ、はい、こちらに……これなんです」
 園子は応接コーナーに男性を案内し、テーブルの上に鎮座している、ガラスケース入りの小さな薬師如来座像を示した。
「仏像ですか」
 さすがに男性は目を丸くした。
「ええ、すみません、やっかいなモノをお願いして」
「いえ、ケースに入ってますから、梱包は簡単ですけど、ちょっとビックリしてしまいました」
 男性は、少し笑ってそう言うと、ケースからパッキンなどの梱包資材をてきぱきと出し始めた。
 百瀬浄之。
 園子は男性の胸元に下がる身分証明カードを素早く読んだ。
「百瀬さん……っておっしゃるんですね」
「あ、はい」
 百瀬はちらりと自分の名札に目を落としてから、小さく頷いた。
「百瀬さん、このあたりのご担当なんですか?」
「いえ、自分は普段は北仙台の方を回ってます。今、交代で夏休みを頂いている時期なので、ローテーションが変わってまして、今夜はたまたま」
「ああ、そうですか」
 園子はいつもの担当者のオトウサンを思い出した。子供がふたりいるそうだから、今頃家族サービスにいそしんでいるのだろう。
「伝票、書いて頂いてますか?」
 梱包資材と一緒に百瀬は伝票を出したが、
「もう書いてあります」
園子は自分のデスクから、すでに記入済みの掛け売り伝票を持ってきた。
 百瀬は、ガラスケースの蓋を開けると、慎重にパッキンをつめ、仏像を固定しはじめた。
「由緒ある仏様なのだそうですよ。お値段はそれほどじゃないんですが」
 園子が問わず語りに話し始める。
「そうなんですか。確かに古いものに見えますね」
 百瀬は作業の手を止めずに答えた。
「遺産相続で揉めている、とある旧家で大事になさっている仏様で……って守秘義務だから言えないんですけど、って、宅配便屋さんには住所もお名前もバレちゃうわけですけどね」
「こちらも守秘義務がありますから、大丈夫ですよ」
 器用な手が、要領良くガラスケースの角まできっちりとパッキンを詰め込む。
「それで、この仏像も遺産分割の対象になるかどうか鑑定して欲しいってことで、ウチの事務所でお預かりしたんです。ところが、知り合いの骨董屋さんに鑑定してもらったんですけれど、値段的には二束三文。名のある仏師が彫ったものではないということで」
「そういうものですか」
「ええ、まあ、信心的には大切なものですが、美術的価値はさほど無いということです。本来なら鑑定して頂いた骨董屋さんから直接ご依頼人様に送り返してもらうべきなのでしょうが、守秘義務が関わって参りますでしょう。だからウチからこっそり送ることにしまして、今お手数をかけているというわけです」
「なるほど」
 と、手元を真剣に見つめていた百瀬が、突然園子の方を向いた。
 まっすぐな視線に、園子は少しだけドキリとした。
「あなたが弁護士さんなのですか?」
「いえ、とんでもない」
 園子は笑って。
「ここは伯父の事務所なんです。あたしは秘書というか、助手をしながら、司法書士の勉強をしているという、気楽な身分です」
 大学在学中に簿記と秘書検定は所得していた園子であったが、伯父の元で働くうちに司法書士の資格が欲しくなり、資格を取ったら給料を上げてやるとも言われ、昨年から本格的に勉強を始めている。
「日中だったらパートの事務員さんもいるんですけどね、夜はどうしてもあたしが何でもかんでもやることになっちゃうんです」
「大変ですね」
「いえそんな、宅配便屋さんほど大変じゃないと思いますよ。最近は駐車場所探しも大変なんでしょう?」
「ええ、それは大変に……」
 と、突然、玄関から乱暴な足音が踏み込んでくる気配がし、ふたりは同時にそちらの方を振り向いた。
「あら、伯父かしら……今日は出先から直帰するって」
 園子は、いつも物静かな伯父にしてはやけに騒がしい、と思いつつ、応接コーナーのついたてから顔を出し、玄関の方を覗いた。
 玄関には大柄な男性が肩をいからせて立っていた。
「園子!」
「えっ」
 園子はその姿を見ると、小さく悲鳴を上げ、その場に立ちすくんだ。