PDで会いましょう 3

    

「あ、SS30とAERですね、アレ」

 園子はガードレールから夜景に向かって身を乗り出した。涼しい風が髪を乱す。

「そうですね」

 隣に立った百瀬は相変わらず冷静な声で答えた。しかし、その声は仕事中に比べれば、幾分楽しげな

気がする、と園子は思った。

 キレイだな……

 園子は百瀬の気配にまだ幾分緊張はしていたものの、それでも眼下に広がる光の海に目奪われていた。

 百瀬が連れてきてくれたのは、仙台市内の定番夜景スポット、国見峠だった。高台を通る幹線道路から、

高層ビルを中心に仙台市街が一望できる。市街地からもほど近い、夜景の定番スポットなだけに、

金曜の夜と言いうこともあり、道路際には数台の車が止まり、車の台数分だけのカップルが各々ぴったりと

よりそって夜景を見ている。暗がりをいいことに長々とキスを交わしているカップルもいたりして、むしろ、

きっちり15pほどの間を空けて立っている自分と百瀬の方が、この場では浮いているのではないかと、

園子はちょっと気恥ずかしくなった。

 園子は、バイクに乗せてもらうのは初めてで、正直少々不安があり、それをハンバーガー・ショップで

百瀬に告げた。

 百瀬は、大丈夫ですよ、職業柄、常に安全運転ですから、と答えた。

 駐輪場で、バイクにくくりつけてあった、銀色の傷だらけのフルフェイスのヘルメットを被らされた。

化粧とヘアスタイルを心配しながら、園子は、このヘルメット、いつもは誰が被っているのだろうと、

ぽちっと、心の中にインクを垂らしたような染みが広がるのを感じていた。

 百瀬自身が着ていたウィンドブレーカーも羽織るようにと手渡された。さすがに遠慮すると、万一

転んだ場合、後ろに乗ってる人の方が怪我し易いのだと言い聞かされた。

 装備を調え、パンツで良かったと思いつつ、おっかなびっくり400ccのバイクのタンデムシートに跨った。

しっかり掴まってて下さいね、と言われたけれど、お互い素性は知れていると言えども、初対面に近い

男性の腰に抱きつくのは憚られ、体をくっつけることはせず、腕だけを百瀬の細い腰に回した。しかし、

走り出すと、本人が言っていた通りに安全運転ではあったものの、車とは違うスピード感と、むき出しの

体に当たる風にいささかの恐怖を感じ、峠道にかかる頃には、しっかりと百瀬に密着していた。

 Tシャツ越しに、堅い腹筋と、体温を感じた。汗も。

「―――国見峠の夜景は初めてですか?」

 百瀬も眼下の景色に視線を落としたまま訊いた。

「はい。初めてです。百瀬さんは、良くいらっしゃるんですか?……彼女さんと」

「そんな人いませんよ」

 暗がりで表情は良くわからないが、声に笑いが含まれていた。

「いないんなら良かったわ」

 園子は百瀬の言葉に、すうっと胸の真ん中の染みが薄れていくのを感じた。

「ヘルメットに化粧がついてしまったでしょうから、あとで彼女に見つかって百瀬さんが怒られたら

どうしましょうって、心配してたんです」

 声が微かにはしゃぐのが隠しきれない。

「そんなの構いませんよ、あのヘルメットはたまに残業して遅くなったバイトの子とかを送っていく

ことがあるので、会社に置いているだけのものですから」

 百瀬は軽やかに言った。

 そして、

「随分落ち着かれたようですね」

園子の方を見て言った。

 確かに……

 園子は胸に手を置いて、自分の心臓の鼓動がゆったりと安定していることを確かめた。

 事務所で男に詰め寄られた時の恐怖も、ハンバーガー・ショップで婚約解消への困難さに思い至った時に

感じた胃の重たさも、随分薄らいでいる。

「百瀬さんのお陰です」

「憂鬱な時は、バイクで遠出して良い景色を見ると、結構楽になるんですよ。俺は、ってことですけど」

 いつの間にか俺、になってる。

 園子は気づいた。

 “僕・自分”が”俺”に変化しただけで、つかみ所のない百瀬という男が、一歩近づいてきてくれた

ような気がした。

 その近づいてきてくれた感触に勇気をもらい、園子は説明すべきだろうと思ってはいたが、口に

出しあぐねていたことを、話し始めた。

「あの……さっきの男性……婚約者のことなんですけど」

「大体分かったと思いますから、無理に話さなくても大丈夫ですよ」

 百瀬は素早くそう言ったが、

「いえ」園子は小さく首を振った。「こんなに親切にして頂いて、ちゃんと事情を説明しないわけには

いきません」

 園子は端的に、男との関係を述べた。

 一年ほど前に、伯父の顧客からの紹介で見合いをし、会い始めたこと。婚約の運びとなった三ヶ月ほど

前から独善的な行為が見られるようになってきたこと。それまでは優しかったので、一時的なものだろうと

思い耐えていたが、次第にエスカレートし、暴力が介在するようになり、とうとう耐えきれなくなって

婚約解消を申し出たのが、三日前の百瀬と初めて出会った日。

「婚約解消したいと言ったら、殴られたのですね?」

 百瀬が静かに訊いた。

「はい……」

 やはり殴られた傷だと気づいていたのか、と園子は百瀬の横顔を盗み見た。目が慣れてきて、すうと

鼻筋の通った横顔が、相変わらず無表情に夜景を眺めているのが見てとれた。

……どう思っただろう。安易に婚約して、三ヶ月ぽっちで破棄、なんて。

 きっと軽蔑しただろうな。

 馬鹿な女だと、思っているだろう。

 園子は小さく溜息を吐いた。
 
   

4ヶ月ほど前、男は突然園子に言った。

「結納は来月の大安の休日でいいよな」

「えっ?」

 もう少し様子を見たいと―――男の性格に不安を感じ始めていた園子はそう思っていたので、

「そんなに急がなくてもいいんじゃないですか?」

 そう言った園子に、男は不機嫌な視線を投げかけ、

「どうせ結婚するんだ。来月に結納すれば、今年中に挙式できるだろう」

 挙式って……私はいつ、この人と結婚することを承諾しただろう?

 園子は、男がプロポーズらしき言葉を自分に告げたことがあっただろうかと、そしてそれに自分が

それらしい返答をしてしまったのだろうかと、必死で記憶をたぐった。

「場所はホテルのレストランか料亭でいいだろう。俺が用意しておく。早めに親に言っておけ」

「え、ええ……」

 おそらく、プロポーズの言葉は聞いていない。

 そう思いながらも、園子は頷いていた。

 少なくとも、結婚相手としての条件は、男は完璧に揃えていた。

 性格以外の条件は、ということだが……

   

「園子さん」

 突然百瀬に名前を呼ばれ、園子はびくりと肩を震わせた。

「ソノコさんの字は、花園の園でいいんですか?」

「え……あ、はい、そうです」

 百瀬はゆっくりと園子の方を見て、微笑んだ。

「名字も教えて頂けますか?」

「あっ……やだ、あたし、名乗ってませんね? ごめんなさいっ」

 園子は思わず自分の口を両手で押さえた。

 名前は、さきほど事務所に押し入ってきた男が連呼していたのを聞いて知ったのだろうけど、ここまで

突っ込んだ話をしているにも関わらず、名乗っていないなんて、あたしって、どれだけ動揺してるんだろう。

 百瀬は微笑んだまま、園子が名乗るのを待っている。

「花沢園子です。大変申し遅れました」

 園子は恥ずかしくて、職場や自宅の病院で客に対する時のように、深々と百瀬に頭を下げた。

「花沢さんですか……ああ、花園なんですね、本当に。ステキだ」

 百瀬は楽しそうにそう言った。

「ええ……」

 園子の恥ずかしさは更に高まる。

「この名前、ちょっと恥ずかしいですよね、狙ってつけたってのが一目瞭然で。それに花沢って言うと、

カツオくんのガールフレンドの太めの不動産屋さんの女の子を、どうしても連想しますでしょう?」

 このネタで、小学生の頃は、男子に散々からかわれたものだ。

 あはは、と百瀬は初めて声を出して笑い、

「花沢さん、いいじゃないですか、しっかり者で。俺は結構好きですよ」

「確かに、しっかり者で親孝行のいい娘さんですけどね」

 園子も笑った。

 アニメの話題で笑うなんて。

 あの男との会話ではあり得ない。

 突発的にバイクで夜景を見に来るなんてこともあり得ない。

 そもそも、あたしの精神状態なんてものを、思いやってくれることがあり得ない……

 相当ツボったらしく、まだくすくす笑っている百瀬に、園子は訊いた。

「百瀬さんは、歌、プロを目指してらっしゃるんですか?」

 百瀬の顔から、すうっと笑みが消え、あっ、拙いことを訊いてしまったか、と一瞬園子は後悔したが、

「いえ、目指していたのですが、諦めた根性無しなんです」

百瀬は、訥々と話し出した。

 高校で同じ方向性の音楽を目指す友人に出会った百瀬は、その友人とデュオを組み、高校の文化祭や、

たまには仙台まで出てきて路上で歌っていた。ふたりで曲も作り始めた。卒業後は、大学進学を教師にも

親にも勧められたが……大学に行きながらでも歌えると……しかし、百瀬と友人はそれを振り切り、

ふたりで東京に出、音楽専門学校に入り、作曲やアレンジを勉強した。勢力的に歌を作り、ストリート・

ライブを頻繁に行い、オーディションを受けまくったが、今一歩のところでプロデビューには至らなかった。

それでも、卒業後もふたりはフリーターをしながら東京で音楽活動を続けていた。

 そんな風にして東京に出てきてから5年が経ち、自分たちは、プロになるのは無理なのかもしれない、

と、疲れも相まって思い始めていた頃。

「スカウトがかかったんです」

 園子は、百瀬の静かな声を、息を詰めて聞いていた。

「ただし、相方にだけ」

 ズキン、と百瀬の静かな言葉が園子の胸に刺さった。

 メジャーデビューの決まったあるバンドで、ギタリストが家庭の事情で抜けざるを得なくなってしまい、

その穴埋めとして、百瀬の相方に声がかかったのだという。

 そのバンド名は、園子にも名前だけは聞き覚えがあった。夜中のミュージック・ビデオのテレビ番組か

何かで耳にしたのかもしれない。

「相方は迷いました。スカウトされたバンドは、俺たちとは微妙に音楽の方向性が違っていますし、

自作の曲を発表できる機会が減ってしまうということもある、それから、やはり俺を捨てて、ひとりで

デビューするということが苦しかったらしく」

 百瀬の視線は変わらずに夜景に向けられていたが、違うものを見ているのかもしれない、と

園子は思った。例えば東京の夜景を。

「だから俺は、相方を置いて仙台に戻り、就職しました」

 園子は息を飲んだ。

「チャンスを生かして欲しかった。相方は、歌はさほどじゃないんですけど、ギターは本当に上手いんです」

 百瀬の口調は変わらないが、微かに苦しげなものが混じっているような気がした。

「でもね、アイツ……相方は、デビューしてからも、俺に時々、詞や曲を送りつけてくるんですよ。

ビッグになって自分のバンドが持てるようになったら、絶対俺はお前とやるんだから、だから、歌を

仕上げておいてくれ、歌っていてくれ、ってね。そんなことを言うんです」

 バカなヤツです。

 と百瀬は小さな声で付け加えて。

「今の仕事に集中しろよ、俺のことなんか気にせずに、って何度も言ってやってるんですが」

「も、百瀬さんっ」

 園子の声は、いささか裏返っていた。

「あたし、百瀬さんの歌、好きです。って言ってもあの夜の一曲しか聴かせてもらってないわけですけど

……でも、あの歌で、あたし、勇気づけられたんです。あの後、家に帰ってすぐ、親にも仲人さんにも、

あの男と婚約解消したいって、すぐに言えたんです。百瀬さんの歌をきいてなければ、まだぐずぐずしてた

かもしれません。行動できなかったかもしれません」

 早口でまくしたてた園子を、百瀬はきょとんとして眺めていたが、ふふっ、と笑みがこぼれた。

 笑われちゃった、と思いながらも、園子は言葉を続けた。

「あたしだけじゃないですよ、あの晩、百瀬さんの歌聴いてた人たち、みんな引き込まれるように

して聴いてましたよ。だから……」

……あたしに何が言えるだろう。

 園子はそこでふと冷静になった。

 諦めないで下さい。

 歌い続けて下さい。

 出会ったばかりのあたしが。

 一曲しか聴いていないあたしが。

 そんなこと言っていいのか?

 一瞬の逡巡の後、園子は。

「……また、聴きたいです。百瀬さんの歌……今、ここで歌って下さい、って言っても無理、ですよね?」

「え、今ですか?」

 百瀬の口元に、白い歯が見えた。

「無理ですねえ、俺、ギター持ってないと歌えないんですよ」

「え? じゃ、カラオケとかダメなんですか、もしかして」

「ええ、カラオケ、苦手なんです」

「変なの、あんなに上手なのに」

 園子も笑った。そして、

「あの歌、タイトルは何て言うんですか?」

「あれは率直に『モトカレ』ってタイトルがついてます」

「うわ、生々し……あ、ごめんなさい」

「確かに生々しいかもですね。もっと良さそうなタイトルがあったら、提案して下さいよ」

「えー、無理ですよう」

……どうしてだろう。

 園子は、百瀬の笑顔を、ずっと前から知っていたような気分になってきていた。

 さっきまであんなに落ち込んでたのに、出会って間もない人なのに、どうしてあたし、こんなに

笑ってるの?

 どうしてこの人が笑うと、こんなに嬉しいの?

「いい歌だと思いました。とても」

 その園子の言葉に、和らいでいた百瀬の表情に一瞬影が差したような気がしたが、

「ありがとうございます」

 そう言った声は、静かで穏やかだった。

   

「ああ、こちらの動物病院のお嬢様だったんですか。何度か仕事で通りかかったことがありました」

 百瀬は”フラワー動物病院”という、灯りの落ちた看板を見上げて言った。

「お、お嬢様なんかじゃないです」

 園子が家に帰り着いたのは、夜10時過ぎだった。

 この病院名も、ベタなネーミングだよな……

 園子は何となく気恥ずかしくなりながら、ヘルメットとウィンドブレーカーを、百瀬に返した。

 返したヘルメットをバイクにくくりつける百瀬に、

「あの……百瀬さん、またペデストリアン・デッキで歌われますよね?」

「ええ、休みの日の夜に歌うことが多いです」

「また聴きに行ってもいいですか?」

「もちろんです」

「次はいつですか?」

「普段は火曜のことが多いんですけど、今は夏休みシフトなので、はっきりとは」

「じゃ……」

 園子はショルダーバッグから手帳を取り出すと、門灯の下で携帯のメールアドレスをメモし、

そのページを破いて百瀬に渡した。

 冷静な表情を装ってはいたが、心臓は激しく動悸を打っていた。

「ご面倒でなければ……ご連絡を下さい。簡単でいいです。”明日何時にPD”とか、そんなんで

いいですから」

 百瀬は数秒その紙を見ていた。そして何か言いたげに口元が動いたが、しかし結局、

「……わかりました」

そっと受け取って丁寧に折りたたんでジーンズのポケットに入れた。

 ヘルメットをかぶり、再びバイクのエンジンをかけた百瀬に、園子は少し声を張り上げて。

「今夜は本当にありがとうございました!」

 百瀬は軽く右手を上げて、市街地方面に去っていった。

   

―――しかし。

 百瀬からのメールは、週が明けても入ることはなかった。

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