その気にさせてみな 1

「あんたの寝顔は、おとーさん以上に天使っぽいね……」
 ぷくぷくのほっぺたを、ちょん、とつついてから、ベビーベッドを離れた。
ヒミコの様子を見ながら、後ずさるように後ろ手で寝室のドアをそっと開け、
リビングに出る。ドアは起きてしまったらすぐ分かるように、細く開けておく。
 顎が外れそうなあくびが出た。
“子持ちの眠たがり”とは良く言ったものだ。ヒミコも生後2ヶ月になり、
新生児の頃よりは一日当たりの授乳回数が少なくなったとはいえ、なんだかんだで
夜でも3,4時間おきに起こされるので、昼寝で補っているにも関わらず
眠ってる気がしないのだ。体内でおっぱいを生産し消耗しているせいもあるんだろうが、
24時間常に眠い。夜中の授乳とオムツの準備だけしたら、私もとっとと寝よう。
「……あれ?」
 大あくびの後の涙目で振り返ったリビングには灯りが点いているものの、誰もいなかった。さっきまで
晃さんがいたはずなのに。ヒミコがおねむになる前、リビングでおっぱいを飲ませている時には、
嬉しそうにそれを眺めていたのだが。キッチンの灯りはついていない。ということは。
「寝てくれた?」
 上から声が降ってきた。見上げると、彼がロフトの手すりに寄りかかり、私を見下ろしていた。
伸びた髪が顔に陰を作っている。
「うん、すぐ寝た」
「そっか、良かった。ねえ美誉さん、ちょっと上がってきてよ」
「何?」
 訊いたが、彼はそれに答えずにロフトに引っ込んでしまった。
 何だろう? もしかしたら、書きあぐんでいた小説が少しは進んだのだろうか。現在森島有人は、
佐々和子シリーズ第2作『聖母子像(仮題)』の解決編で四苦八苦しているところだ。ちょっとでも
進められて、それを見て欲しいっていうんなら大歓迎だが……
 リビングの灯りを消し、ハシゴを急いで上る。と、机の前に座ってるとばかり思っていた彼は、
ソファにゆったりと腰掛けていた。しかもソファは背もたれを倒し、シーツを掛け、ベッド状態に
セットされている(ソファベットなのだ)。
「……何?」
「ま、座って」
 彼はニコニコ……というか、不穏に含み笑いをして、ソファの自分の隣をポンポンと叩いた。
 気づけば、ロフトの灯りは机の上のスタンドのみ。しかも光量調節されて薄暗い。これから仕事を
しようという雰囲気では全然ない。
 とりあえず、彼の隣に座る。
「……何でそんな身構えてるの?」
 油断なく浅くソファに腰掛けた私に、彼が怪訝そうに訊く。
「晃さんが何をしたいのか、分かったような気がするから」
「あ、そ。じゃ話は早い」
 首を左15度くらいの、絹糸のような髪がさらりと流れを見せる絶妙な角度に傾げ、栗色の瞳を光を集約
するように細め、きゅっと口角を上げた唇からはちらりと真珠のような歯を見せて……要するに、天使の
ような微笑みで、彼は言った。もうすぐ三十路のオッサンに天使のような笑顔という表現はどうかとも
思うが、どうしてもそう見えてしまうのだから仕方ない。例え中身は小悪魔でも……って、オッサンに
小悪魔という表現もいかがなものか。
「しよ?」
……やっぱりな。
 思わず溜息が出る。
「もうしたっていいんでしょ?」
「そりゃまあいいんだけど」
 とっくの昔、産後1ヶ月の検診でOKが出ている。
「でしょ? ネットで調べたところによると、産後2〜3ヶ月で再開する夫婦が多いみたいだしさ、
俺たちもそろそろしようよ。せっかく週末だし、ヒミコもとっとと寝てくれたし。ね、しよ?」
 すっ、と彼の手が、私の手に重ねられる。
 やる気満々らしい。そりゃそうだな、出産前に抜いてあげたことはあったけれど、セックス自体は
8ヶ月くらいしていないんだから。
……でも。
「……悪いけど、まだやめとく」
 そう言うと、彼はマンガのようにコケた。
「えー、なんで? まだ会陰切開が痛いの?」
「そういうわけじゃないんだけどさ……」
 会陰切開はもちろんとっくに治ってるし、御多分に漏れず私も産後は痔気味だったのだが、そちらも
大分治まった。産後疲れやダメージは、ほぼ癒えているんじゃないかと思う。
 だが……
「だってえ、やっぱヒミの様子が気になって集中できそうもないしさ、それに遅くとも4時間後くらいには
また起こされるんだよ? しんどいじゃん」
「ヒミコ今寝たばっかりなんだから、30分やそこいらは大丈夫でしょ? それに今夜は俺がミルク
やるよ。オムツも取り替えるよ。美誉さん起きなくていいから」
 母乳が足りないわけじゃないのだが(っていうか売りたいほど出てるのだが。私は多分乳母になれる)
仕事に復帰するときのことを考えて、ミルクにも少しずつ慣れさせている段階。
「夜はなるべく母乳にしたいんだけど、張るから……まあ、それはおいといても、とにかく寝不足
なんだよね。今もすごい眠いし」
「そんなら明日の朝もゆっくり寝てていいから。俺が朝飯作るし、洗濯も掃除も任せて」
 そう言う彼の目は、やたら真剣だ。
「晃さん、そんなにしたいんだ?」
「したいしたい。すごくしたい。美誉さんはしたくないの?」
「したくないわけじゃないんだけどさ……」
 私にとって彼の温もりほど気持ちの良いものはないのだから、触れたい気持ちはもちろんある。
「じゃ、何でそんなに渋るんだよ」ぷうっと白い頬が膨らんだ。「傷つくなあ。浮気するぞ?」
「あーそうですか。んじゃ、娘を連れて実家に帰らせて頂きます」
「ああんウソウソ。嘘に決まってるじゃん」
 腰を浮かせた私の手を、彼は慌てて引き寄せる。
 このあたりはお互い冗談と解ってのやりとりだ。彼はこれしきのことで傷ついて浮気するようなタマでは
ないし、私は彼の一度や二度の過ちを咎められるほど清廉潔白ではない。
「ねえ、つれないこと言わないで、お願い」
 彼はそう言いながら、私の手をぎゅうっと両手で握りしめた。
 ううむ。私は昔も今も、こういう彼の子どもっぽい振る舞いや表情にやたら弱いのだ。
 はあ、ともう一度溜息を吐いてから、
「んー。仕方ないな……」
彼の方を向いてソファに座り直し、右手の親指で自分の胸を指す。

「んじゃさ、この子持ちの眠たがりを、そ、その気にさせてみな」

……ちぇっ。もっとクールな感じで言い放つつもりだったのだが、どうしても恥ずかしさが先に
立って、かんじゃったじゃん。
 彼は一瞬驚いたように目を見開いてから、ぶっ、と吹きだし、
「美誉さんて、ホンットにツンデレだなあ。あー面白い」
あははは、と大笑いした。
 柄でもない台詞、かっこつけて言うんじゃなかった。
 ひとしきり笑った彼は、笑顔のままだったが、すっと目を細め。
 今度は天使のふりをした微笑みではない。彼に潜む小悪魔が、美しい顔にありありと現れる。瞳の色が
心なしか栗色から金色に近づいたような気もしたりして。
「そういうことなら、任せなさい。すぐにその気にさせてあげる」
 すっと顔が近づいてくる。反射的に目を閉じると、湿った唇が、ふわりと私の唇に重ねられる。軽く
触れた状態で、唇が蠢き、唇の形を探る。
 長い指が首から後頭部に滑り込み、短い髪を探る。ぞわぞわと髪の毛が逆立つ。
 一瞬髪に神経が集中した隙に、熱い舌が唇の形をゆっくりとなぞり始める。
 甘い吐息にはローズの香りがした。ヒミコを寝かしつけている間にハーブティーを飲んだらしい。
私の授乳のための禁酒につきあって彼も節酒してくれているので、妊娠中から引き続きふたりで
ハーブティーに凝っているのだ。
 ローズ、晃さんに似合う……
 とろけ始めた脳がそんなことを考える。
 舌がつるりと口の中に入り込んできた。舌は縦横無尽に唇の裏を探り、歯を一本一本確かめるように
なぞる。
 ローズの香りに満たされる。
「ん……」
 上あごの裏の敏感な部分を舐め上げられ、声が出てしまった。
 唐突に唇が離れていった。後頭部を支えていた手も去り、バランスを崩しそうになる。
 彼は手の甲で、自分の唇の回りの唾液を無造作に拭った。
 それを見て慌てて自分の唇を拭く私の顔を、小悪魔の笑顔が覗き込み、
「どう? 少しはその気になってきた?」
「ま、まあね……」
 触れられれば一瞬で火が点くだろうことは、自分でも分かっていた。
 繰りかえすが、私だってしたくないわけじゃないのだ……ただ。
 ふふ、と含み笑いが耳に吹き込まれ、耳たぶが唇に柔らかく挟まれた。
 ぞく、と背中を熱い痺れが駆け下り、下半身に到達する。
……あ。
 いつの間にか、器用な指先がパジャマの(授乳に便利な)前開きのボタンをはずし始めていた。
「あ、あのさ、晃さん、暗くしようよ」
 その手を慌てて両手で掴んで止める。
「充分暗いでしょ?」
 返事と一緒に吐息が吹き込まれ、ぶるっ、と震えてしまった。
「いやもっと暗くしたいなと……」
「何でよ。いつもこのくらいでしてるじゃん」
 雰囲気ぶちこわしの要求に、彼は不満そうに耳から唇を離し、また、ぷん、と頬を膨らませた。
「だってさ……」


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