Taboo

「先生だって、こんな理科の教材みたいな観察記より、うるうるの美しく感動的な文芸作品ばっかりを教えてる方が絶対楽しいんですけどー」
『アリの生態』という観察文に授業が入った時間、机の間の通路をねりねりと歩き回りながら、ミヨ先生はそんな国語教師にあるまじきことをのたまった。
「でもね、こういう観察文とか評論文を読みこなす訓練は、みんながこれから大人になって自立して生きていくために絶対必要なの。中学生の今だって、電化製品のマニュアルとか読まなきゃいけないことあるでしょ。それから、フリーソフトのダウンロードにも、いちいち面倒くさい規約がついてたりするじゃない。ああいう類の説明書とか規約って読み辛くない? もうちょっと文章の上手いヤツに書かせろよ、って感じでー」
 思う思う。何度読み直しても分からないような文章だらけだ。クラスメートたちの多くも同じように思ったらしく、教室のそこかしこが頷いたり、苦笑が漏れたりしている。
「大人になるとね、お勤めすればどんな職種でも毎日たくさんの面倒な文書を読まなければならないってのは分かるでしょ。俺は漁師になるから関係ない、とか思ってる人もいるかもしれないけど、自営業だって、例えば保険の規約とか、車のローンの契約書とか、株式や国債とかに投資する人もいるかもしれない。お家を建てるかもしれない。そんな時、きっちり面倒くさい書類を読む訓練ができていないと、悪徳業者にひっかけられるかもしれないよー。このご時世、ワザと読み難い契約書作ったりする、ケシカラン輩もいるからね」
 なるほど、それはあるかもしれないな。ウチのばーちゃんなんて、怪しげな乾燥キノコの訪問販売に5万円もヤラレタもんな……
「それに」
 そこで教壇に上ったミヨ先生は、くるりと生徒の方を振り向くと、それまでふざけ半分くさかった口調をピシッと変えて、
「観察文か評論文は、絶対受験に出ます。というわけで、がんばってやりましょう!」
 教室は、まーた受験受験ってもう、って感じでいささか不満そうにざわついたが……中3の10月ともなると、学校でも家でも受験受験とそればかりなので……それでもこの前振りで、いくらか集中力は高まったようだった。
 ミヨ先生は、今年からウチの中学に赴任してきたばかり。昨年度末の、新聞に載った先生の移動名簿を見て、女の先生が来るんだな、若くてキレイな人だといいな、と期待はしていたのだが、ぶっちゃけ期待通り、いや期待以上だった。年度が明けての始業式、ミヨ先生がウチのクラスの副担になると発表になった瞬間、俺は感動に脚が震え、体育館の床に倒れそうになった。
 モデルみてえだ……
 遠目で見た第一印象はコレだ。
 小顔で、すらっと背が高くて、髪が長くて。
 アップで見ると決して絶世の美女というわけじゃないのだが、国語の時間が目の保養になる程度のレベルではある。体育祭の時に見物がてら学校に来て、ミヨ先生に挨拶をしたウチの親父は、帰宅してからニヤニヤして、
「キャンディーズのミキちゃんにちょっと感じが似てる」
と、ワケのわからんことを言っていた。どうやら大ファンだった大昔のアイドルらしい。俺に言わせれば「小雪を庶民的にした感じ」だ。
 出席番号で指名されたクラスメートが立ち上がり、『アリの生態』の1章目を朗読しはじめた。それを聞き流しつつ、テキストの文字の上に目を滑らせる。当然内容は頭に入ってこない。
 教壇の上にすっと立ち、テキストに目を落としているミヨ先生に、ちらっと目をやる。
 今日のミヨ先生は髪を下ろし、グレーのタートルネックに、ベージュのチノパンだ。いっつもジャージか、今日みたいなシンプルなパンツスタイルで、スカート穿いてるとこなんて、式典の時しか見たこと無い。それでも、クラスメートのがさつな女共はもちろんのこと、俺の周辺にはミヨ先生よりキレイな女の人はいない。少なくとも、この学校じゃミヨ先生が一番キレイだーっ!と全校放送でゲリラ主張したら、賛同する野郎はいっぱいいるだろう。
 誤解のないように言っておくが「一発お願いしたい」という、そういうキレイさじゃない。あくまで「キレイなお姉さん」として、毛穴が見えるくらいの距離に近づいてみたい。できれば親しくお話したい。機会があれば膝枕のひとつでもしてもらって甘えたい……つまり、こんなお姉さんがいたら幸せだろうな、という存在だ。俺にとっては(ちなみに俺の兄弟は、暴力妹が約2名)。
 その印象は赴任から半年経って、秋になった今でも変わらない。
 でも、中身はキレイなお姉さん、じゃ済まないってことも分かってきた。
顧問をしている吹奏楽部員の友達によると、ミヨ先生の指導はそれはそれは厳しいものらしい。理不尽な厳しさではないらしいが、例えば
「次までに、ここ、こういう風に練習しておいてね」
と、言われたところを、ろくに練習しないで次回の合奏に臨んだりすれば、
「やる気あんのか! ないんだろ!? 今すぐ出てけ!!」
と鬼のように怒り出し、音楽室から追放してしまうこともあるとか。そういえば、合奏中に音楽室を追い出され、楽器を抱えたまま廊下でしくしく泣いている女子部員を、俺も見かけたことがある。
 でも、その厳しさは無駄ではなかったらしく、ここ数年低迷していた吹奏楽部は、今年の夏のコンクールで、久しぶりに県大会で金賞をもらったそうだ。
 それだけではなく、怒ったミヨ先生の怖さを思い知った出来事が、二学期に入ってからもあった。
 2学期に入ってすぐのことだ。放課後、体育館の裏で、ウチのクラス一のヤンキー、後藤がヤンキー仲間3人と煙草を吸っていた。煙草が吸いたいなら、なにもイキがって学校で吸わないでも、家ででも港ででも、人目のないとこで吸えばいいじゃんかよ、と、俺なんか思っちゃうんだが、まあ、そういうお年頃なんだろう。
 とにかく、後藤が煙草を吸っているところを、ミヨ先生が見つけてしまった。煙が見えたのかもしれないし、匂いがしたのかもしれない。見つけたミヨ先生は、後藤たちに全速力で駆け寄ると、いきなり後藤の胸ポケットに入っていた煙草の箱をさっと取り上げ、地面に叩きつけて踏みつぶした。
「何しやがんだよぅ」
 ウンコ座りしていた後藤は立ち上がってミヨ先生に凄んでみせた(しかしミヨ先生の方が背が高いから、迫力は皆無だったろう)。その後藤の頬を、ミヨ先生は思いっきり平手で張り飛ばした。手首のスナップの効いた、卓球ならコーナーにビシっと決まったスーパースマッシュ、バレーボールなら弾丸スパイク、みたいな見事なビンタだったそうだ。
「い、痛えじゃねえかよ、くそ、このアマ、教育委員会に体罰だっていいつけんぞ!」
 驚き、よろけながらも凄む後藤にミヨ先生は言い放った。
「成長期に煙草吸ってるようなマゾ野郎が、女に平手打ちされたくらいでガタガタ言ってんじゃねえよっ!」
俺は当然その場には居合わせず、又聞きの又聞きくらいで知ったことだから、どこまで尾ひれがついてるかはわからんけど。
でも。
ちらりと後ろの方の席を見やると、後藤が憮然としながらも、一応教科書に目を落としている様子が見えた。今も後藤は、頭は真っ赤っかのソフトモヒカンだし、嫌いな先生の授業はテキトーにサボったりしてるし、相変わらずだっせえヤンキーだけど、でも、ミヨ先生の授業は必ず出席してる。
「はい、ありがとう。上手に読んでくれて」
朗読が終わると、ミヨ先生は、黒板に6つの質問を板書した。各質問には1〜6の数字が振られている。ミヨ先生は結構筆圧が強くて、カツカツとチョークが黒板に当たる小気味よい音がする。
「はーい、ではこれらの質問について、1問ずつ各班で話し合って答えて下さい。5分時間をあげますから班全員で考えて下さい。そのあと発表してもらいます。いつものように答えだけじゃなく、理由も説明できるようにしてください。誰に当てるか分からないから、班全員が答えられるようにしてね」
ミヨ先生は班で考えさせることが多い。そして答えだけじゃなくて、どういう話し合いの結果その答えになったのかも必ず発表させる。
 俺たち3班に当たったのは、文中のとある「それ」が何を差しているかだった。ガタガタと机を向かい合わせた途端、班長の小嶋由樹が、答えとその理由をベラベラベラっと述べ、あとは隣合った佐藤香澄とこそこそと内緒話を始めた。
 小嶋が言った答えと理由を慌ててノートにメモしていると、
「だからさ、ミヨセンセはさ……」
 ふたりの内緒話から、ミヨ先生という単語が聞こえてきたので、俺はスルドク反応してしまった。
「ミヨ先生がどしたって?」
「なんだよ、熊谷、女同士の話だよ。くんなよ」
 小嶋が犬を追っ払うように手を振った。
「いーじゃん、ケチ、俺にも教えろよ」
「熊谷はミヨ先生のファンだから、聞かない方がいいって」
「なんだそれー、そんなこと言われるとますます聞きたくなるだろ、教えろよー」
 小嶋と佐藤は顔を見合わせて肩をすくめた。
「しょーがないなー。ショックでも泣くなよ」
「誰が泣くかよ」
「どうだかな」
 そう言いながらも、小嶋が俺の耳に顔を寄せて。
「先生の左側の首筋に、キスマークがあるって話」
 キ。
「キ……キスマークってなんだ?」
 そう聞くと、小嶋は思いっきりずっこけた。
「うっわーーーー、子供っ、熊谷」
「うるせー、教えろー」
 小嶋は軽蔑の笑いを浮かべながらも、
「えっちの時に、首筋とかにキスするとできる痕のことだよ」
 ますます小声で教えてくれた……が。
 ええっ?
 えっちの時、首筋にキスするってところまでは分かるような気がする。でも、キスしたくらいで痕がつくのか?
「……キスしただけで痕がつくもんなのか?」
「だーかーらー」
 今度は身を乗り出した佐藤が訳知り顔で、
「それだけ強く吸ったってことだろ。腕の裏側の柔らかいとこ、自分で吸ってみな」
 シャツの袖をまくり上げて、腕の裏側の白くて柔らかいところを吸ってみる。
「つかねーよ」
「もっと強く吸わなきゃ」
 ちゅう、っと、固いシェイクを吸うような勢いで吸ってみた。すると、赤い痣のような痕がついた。
「そゆこと」
「ひとつ大人になったね熊谷くん」
 女子ふたりはニヤニヤして言った。
 えっちの時って、こんなに、痛いほど強く吸うのか!
「な、なんでこんなことするんだ?」
「そりゃさー、アレですよ。愛情表現と共に」佐藤がちっちっと人差し指を顔の前で振って。「お前は俺のもんだっていう、印を残したいわけだ」
 ぶっ。
「そ、そ、そんなこと言ってるけどな、お前ら、今日ミヨ先生、髪下ろしてるから首筋なんて見えねーじゃんっ」
 それに上衣はタートルネックだ。
「さっき、髪掻き上げた時、ちらっと見えたもん」
 小嶋が得意げに言った。
「それにね、昨日からあったんだよ」
「えええっ」
「昨日は、先生本人が気づいてなかったらしくて、髪結わえてたじゃん、だからハッキリ見えてた」
 うぞーっ。俺はそんなもん全然気づかなかったぞ! ってか、そりゃキスマークってものの存在さえ、今さっきまで知らなかったわけだが……
「だから今日も注意して見てたんだもんねー」
 ねー、と言って、ふたりは目を見合わせた。
「やっぱアレだよ、ウチに来てた出版社のお兄さんが彼氏なんだよ」
「な、なななな、何だ、その出版社のお兄さんて」
 俺は慌てて口を挟んだ。
「土曜の晩にさ、うちの店にミヨ先生が、お客さんふたり連れてきてくれてさ」
 小嶋の家は温泉街にある居酒屋である。
「取材で佐渡に来た小説家の先生と、出版社の人なんだけど、出版社の人がさ、ミヨ先生の高校の同級生なんだって。彼氏じゃないって言ってたそうだけど、小説家の先生が帰っちゃったあとも、ミヨ先生とそのお兄さんがふたりで仲良く飲んでて、すごく良い雰囲気だったから、やっぱアヤシイ〜って、うちのかーちゃんが言ってた」
「こ、小嶋、見たのかよ、その男」
「んにゃ、その晩はあたしは残念ながら店に呼ばれなかったからー。でもなかなかイケメンだったって〜」
 佐藤が身をよじる。
「うわー、見たかったよお」
 か。
 彼氏。
 ミヨ先生に彼氏!?
 そりゃ、ミヨ先生だって25歳だから彼氏のひとりくらいいたって、そしてえっちしてたっておかしくはない。
 でも。
 でもでもっ……
「ねえ、でも、昨日より今日のが濃くなってると思わん? キスマーク」
 凍り付く俺を放置し、女子ふたりはこそこそと内緒話を続ける。
「うん、そうだよね、昨日は接近してやっと気づいたけど、今日はちらっと見えただけでハッキリ分かったよねー」
「だからさー、彼氏、ミヨ先生ん家に泊まってるんじゃないの? 土曜からずっと」
「え、一泊で帰っちゃうって言ってたらしいけど」
「小説家の先生は帰ったけど、彼氏だけ残ったとかさー」
「なるほど、そーすっと、連日やってるってわけー?」
 ふたりは口元を抑えて、くすくすくすくす……
「今日、先生ちょっとボーッとしてるし、それアリなんじゃない?」
 た、確かに話し合いタイムの5分はとっくに過ぎ、どの班も既に雑談モードに入っているが、ミヨ先生は窓際に立ち、ぼんやりと外を見ていた。いつもの話し合いタイムでは、班の間をねりねり歩き回って、ニヤニヤしながら脱線していく話し合いの様子を聞いていたり、ツッコミを入れたりしてるのに。
「ホントだー、もしかしてーえっち疲れってヤツ?」
 きゃー、とふたりは小さく声を上げた。
 その声に我に返ったのか、ミヨ先生は、ハッ、と、窓の外から教室に視線を戻し、
「ごめんごめん、5分過ぎちゃったね、さ、発表してもらいましょうか」
 いつものように快活に教壇に上った。
「どーしよっかなー、んじゃ、今日は班で一番誕生日が若い人に発表してもらいましょう」
 えーっ、と教室のそこかしこから不満の声が上がる。うわ、もしかして俺も発表か? 3月生まれだから。やべえじゃん。
「3月10日より誕生日遅いヤツ、いるか?」
 慌てて班の6人を見回すが、みんな首を振った。
「くそっ、やっぱ俺か、小嶋、もう一回教えてくれよー」
 小嶋に小声でアドバイスをもらいながら、何とか発表を乗り切った後は、俺はもう全く授業に身が入らなかった。ミヨ先生ばかり盗み見ていた。長い黒髪を透視して首筋が見えないものかと。
 ミヨ先生は、男にそんなところを吸われている時、どんな顔をするのだろう。
 やはり気持ちよさそうな顔をするのだろうか。それとも、痛みを堪える表情になるのだろうか。
 抱きしめられている時。
 キスしている時。
 えっちしている時は……
 そんなことを想像していると、ズボンの前が張ってきてしまい、女共にばれないように、前屈みになって必死で隠した。
 授業が終わり、俺はたまらず、廊下に出て行ったミヨ先生を追いかけた。
 廊下を走り回る生徒たちの間をすいすいと歩いていくすんなりとした後ろ姿が、何だかいつもよりウキウキしているように見えるのは、俺の気のせいだろうか……
「み、じゃない、曽根先生っ」
 人気が切れた階段の踊り場で、その背中に声をかけた。
「はい?」
 ミヨ先生はすぐに立ち止まって振り返った。
「し、質問があります」
「おっ、熊谷くん、珍しいね。いいよ、どこ?」
 先生は笑顔でテキストをめくり始めた。
「ち、違うんです、あの」
「今の時間にやったところじゃないの? 古文かな?」
「そうじゃなくてっ」
 俺はすうっと深く息を吸って、それを思いっきり吐き出すように言った。
「先生、彼氏いるんですかっ?」
 ミヨ先生は、相当驚いたらしく、ぽかんと口を開けた。
 深い意味があって訊いたわけじゃない。
 でも、このまま確かめないでままでいるのはキツすぎる。
 毎日毎日、そればっかり考えてしまいそうで……
 数秒後、ミヨ先生は口を閉じて、そして笑って。
「ねえ、熊谷くん」
 その笑顔は、俺が知らない種類のもので。
「その質問は、タブーだよ」
 そう言ったミヨ先生の頬は、微かに赤らんでいるようで……
 それで俺は。
 自分が、生まれて初めての本格的な失恋というヤツをしてしまったらしいと、悟ったのだった―――
FIN.


※番外編短編『Touch』に何となく続いておりますのでよろしければm(__)m