手をつないで、夜道を4


 理子さんのアパートは3階建てで、周囲に多く並ぶ学生向アパートの中では、新しくてキレイな
部類に入る。部屋は2階で、間取りはウチの蔵座敷についてるようなミニマムなキッチンと、
8畳くらいの洋室の1K。小さなユニットバスがついている。物は多いけどこぎれいに
片づいているところが、英の部屋と似ている。
 帰宅して、すぐに冷蔵庫を開けた理子さんが、
「あーー!」
 と、声を上げた。
「そーだっ、帰りに買い物してこなきゃだったんだよ!」
 理子さんはクローゼットにコートを掛けている英を振り向き、
「英! ちょっとひとっ走り駅前のスーパーまでおつかい行ってきて!!」
「ええー、出直せってかー」
 英は一気にげんなりした顔になる。
「朝ごはん用のパンと牛乳が無いんだよ」
「いーよ、朝飯くらい抜いたって。道中テキトーに食うし」
「ダメだよっ! あんたら現役アスリートだし、成長期なんだからっ。あたしがお母さんに
怒られる。食費も預かってるんだしっ」
 学食でも、そういうわけで理子さんが払ってくれたのだった。その責任感は大変ありがたいし、
朝食だって真っ当な時間に食べさせてもらうにこしたことはない。
 しかし、英がだだをこねるのも理解できる。外は暗いし寒いし、球拾いでくたびれちゃった
ようだし。駅前までは道は分かりやすいが、徒歩15分ほどかかるし、例によって帰りは上り坂なのだ。
「あのー……」
 おそるおそる姉弟の間に割り込む。
「私が行ってきますけど……」
「ダメだよ!」
「ダメだ!」
 姉弟は同時に私の方を見て、同じことを言った。
「女の子をこんな時間にひとりでやれるわけないでしょ!」
 理子さんが鼻の穴を膨らます。
「大丈夫ですよ、走りますから」
 走れば10分とかからないだろうし、変なヤツがいても、まず追いつかれることはない。それに
髪をしばってコートの襟の中に入れてしまえば、暗い中、ジーンズを穿いた私を女子だと
見破れる者は、まずおるまい。
「自転車貸していただければ、もっと安心ですけど」
「ダメだ、そんなら自転車借りて俺が行く!」
 英は奮然と言い放ち、クローゼットにしまいかけていたコートを取り出し……と。
「あ」
 理子さんがポンと手を叩いた。
「わかった、ンなら2人で行ってきてよ。その間にあたし、お布団とかお風呂の用意しとくからさ。
ね、そんならいいでしょ?」
 
 英と私は顔を見合わせて―――


◆1日目:渡瀬3◆

 理子に2千円を押しつけられ、牛乳とヨーグルトと、残った分でスーパー内にあるベーカリーで
好きなパン買ってきていいから、と言いつけられた。この時間だとパンが割引になっているの
だそうで。まるでガキのおつかいだが、ヒミコと2人なら悪くないかな……と思う。
 キンと冷えて乾いた夜空には星。東京でもこのあたりなら、結構キレイなもんだ。
 大量のパンを買い込んで、行きは半ば駆け下りた坂道を、ゆっくりと上る。俺の
ダッフルコートのポケットの中で、手をつないで。
 ヒミコの手は、手袋をしていたにも関わらず冷たかった。冷たさのせいで、絡みつく指が、
一層細い。
 それでも、胸の内はほっこりと温かい。今日は一日中ヒミコと一緒にいられたわけだが、
今が一番親密な気がする。
 夜のせいか。
 つないだ手のせいか。
 白い息のせいか。
 知らない街のせいか。

―――こういうのって、いいな。
 夜道をふたりで、手をつないで買い物して、同じ部屋に帰る。

「―――そうか」
 思わず声が出てしまう。
 彼女が俺を見上げる。きょとんとした、無防備な眼差しで。
「いや、こーゆーのって……こうやって、夜に2人でぶらぶら買い物に出て、同じ部屋に帰るって、
なんかいいなーって」
「ああ……」
 ヒミコは照れたように笑い、そうだね、と小さな声で同意した。
「んで、こういうことをさ」
 チカチカと点滅している、切れかけた街灯が坂道の少し先に。
「同じ大学に行けば、しょっちゅうやれるんだなあって、思ったわけ」
 唐突に、彼女の足が停まった。
「……どうした?」
 手をつないだまま、引き戻されるように振り返ると、青白く点滅する光に照らされた彼女の顔は、
思い詰めたように強張っていた。
「英……私……私ね」
 唇がわずかに震えたようだった。
「同じ大学には行けないと思う」
 声も震えていたように思う。それでも彼女は、
「私ね、津久葉大に行きたいんだ。津久葉に行って、スポーツドクターになりたいの」
 決然と言った。


◆1日目:ヒミコ3◆

 視界がちらちらするのは、切れかけた街灯のせいだけではあるまい。
「ごめん……だから」
 とうとう……言ってしまった。
「同じ大学には行けそうもない」
 言わなければならないこと。いつか、ではなく、なるべく早く言わなければならなかったことだ。
 時間を稼いでも、どうにかなることではないのだから。
「ごめんね……」
 これ以上、微かにでも期待を持たせ続けてはいけない。
 もちろん彼に。
 そして私にも。
 おそらく彼は悲しむだろう。寂しく思うだろう。もしかしたら怒りさえ覚えるかもしれない。
だって、私自身がそうだから……

「―――おお、いいんじゃね、スポーツドクター。お前にスゲ合ってる。カッコイイな」
 やりきれずにうつむいていた私にかけられたのは、いつも通りの穏やかな声。
 顔を上げると、そこには笑顔が……大好きな笑顔が。
「悪かったな、変なこと言って。同じ大学になんか行けっこないって、ンなこと解りきってんのに」
 首を振る。
 彼が謝ることではない。むしろ謝るべきなのは、私。だって、合わせることが可能なのは、
私の方なんだから。

―――なのにどうして。
 一番大切な人が目の前にいるのに、どうして夢など抱いてしまうのだろう。
 そして夢を追ってしまいながら、未来の私―――なりたい私。その私の傍にも彼がいてくれれば
いいのに、なんて、贅沢な未来図を思い描いてしまうのだ。

 くい、とつないだ手がひっぱられた。再びゆっくりと歩き出す。
「津久葉なら、遠距離ってほどじゃねーよな。俺が何とか都内の大学に潜り込めたら、って話だけど。
地元にいてくれるより、むしろ会い易いんじゃね?」
 英は楽しげな口調でそんなことを言う。
 けれど、傷ついていないはずはない。
 だから私は、返事ができない。
「あ、そーだ、明日、津久葉行っちゃわね?」
「え」
 明日、津久葉に?
「でも明日は」
 多摩地区の大学を2つ見た後、埼玉方面を回って帰る予定ではなかったか。
「いいって、今日は俺の志望校ばっかり見ちゃったし、明日はお前の行きたいとこ、行こう。な?」

 ―――大好きなはずの笑顔が、痛い。


◆1日目:渡瀬4◆

 眠れなかった。
 強行軍と、予定外の運動でどっぷり疲れてるはずなのに。

 津久葉大か。
 あり得ない選択ではない。国立大の中ではダントツにスポーツが盛んだし、体育系も農学系も
あるから、スポーツドクターという夢はさておいても、彼女の選択肢にはいかにも入ってきそうな
大学だ。
 というか、俺だって行けるもんなら行きたいくらいだ。野球部も強いんだし。
でも、俺の頭じゃ到底無理だ。
―――いや、浪人するとか、今すぐにでも野球部を辞めて死ぬほど猛勉強すれば、もしかしたら
入れないこともないのかもしれないけど。
 でも、それじゃ本末転倒なんだよな。大学で野球をやりたいのに、ブランクを作っちゃうわけには
いかなくて。

 キッチンの方から窓の方へと寝返りを打つ。窓際のベッドはヒミコが使っている。その下の床に
敷いた布団で理子が寝ていて、俺は更にその隣。
 理子のベッドは普通サイズだから、彼女には少し狭そうだ。狭いのと、遠慮もあって、彼女は
床でいいと言ったのだけれど、理子は断固としてきかなかった。保護者に監督を任された身としては、
俺と彼女を隣り合わせで寝かせるわけにはいかないのだろう。
 まさか理子のいるとこで、やらしいことするわけないんだけど。
 彼女はベッドで、窓の方を向いて、少し背中を丸めている。
 俺は暗がりの中、布団を透かすように、その背中をじっと見つめる。

 彼女は、津久葉大を志望するのは、スポーツ医学の最先端をいってるからってだけではないと
言った。香誉ちゃんと、天野先生の母校だからなのだと。
 天野先生のようなスポーツドクターになりたいのだと。
 確かに、秋にケガをしたときに、天野医師の存在は、医療面でも精神面でも大きな支えになって
くれたようだったから、憧れる気持ちはわかる。
……けれど。
 それだけか?
 そう訊きたい。
 訊けないけど。

 津久葉大には、あの人がいるからじゃないのか?

 たまらなく訊きたい……怖いのに訊きたい。
 訊いたら怒るだろうか。悲しむだろうか。笑い飛ばすだろうか。
 それとも……動揺するだろうか。

 ……と。
 彼女の背中が動いた。
 ゆっくりと寝返りを打った。

 目が開いていた。
 青いほど澄んでいる彼女の白目は、カーテン越しの薄ぼんやりした灯りでも、くっきりと白い。
 視線が合う。

 お前も眠れなかったのか……

 す、と、音もなく手が伸ばされた。
 細く白い手が、俺に向かって伸ばされる。
 俺も布団から片手を出し、その手に向かって伸ばす。
 間に理子がいやがるから届かないけれど、それでも。

 夜更けの道での冷たい感触が指先に蘇る。
 ポケットの中で、俺にきつくしがみついていた、痛いほどの指の力も。

 しばらく宙に腕を伸ばしていた。
 聞こえるのは理子の寝息と、国道を通る遠い車の音だけ。

『寝ろ』
 と、声に出さずに言った。
 彼女は微かに頷き、
『おやすみ』
 と、やはり声に出さずに答えた。
 腕が引っ込められ、背中が向けられた。
 もう背中は動かなかった。

 俺は眠気が訪れるのを待ちながら、ただその背中を見つめていた。
 




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