手をつないで、夜道を 9


◆渡瀬:2日目3◆

「お前、津久葉大に行きたいのは……あの人が……岡島さんがいるからじゃ、ねえよな?」

 そう囁いた瞬間、ものすごい力で撥ねのけられた。
……殴られる! 
 咄嗟に顔を腕で防御したが、予想に反して拳が飛んでくることはなく。
 おそるおそる腕越しに目を上げると。

 涙をいっぱいに溜めた琥珀の瞳が、俺をじっと見つめていた。
 怒りと―――とてつもなく哀しそうな光を湛えて。
 紅潮した頬はこわばり、充血した唇はキツく噛みしめられ。

―――あ。

「ごめん……ッ」
 抱き寄せようとした手は強く振り払われ、彼女はベッドを飛び降りると、乱れた服のまま
バスルームに駆け込んでいった。バン! と乱暴にドアが閉められる。

「……う、わぁ……」
 一気に黒々とした自己嫌悪の渦に飲み込まれ、頭を抱えた。

 ヤリながらも、途方に暮れていた。
 理不尽だと自覚しているのに、醜い感情が抑えきれない。
 こんな八つ当たりのようなセックスをするべきでないと、理性は必死に暴走する感情を宥めようと
していたのに。

 俺は、彼女に何をした?
 何を言った?

 自己嫌悪に罪悪感も加わり、吐き気がする。ベッドが突然底なし沼に変わったように、
足下からずぶずぶと沈み込んでいく。

 ―――俺はヒミコに、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか?

 それでも、ひとつ深呼吸して、勇気をふりしぼる。
 股間にまだしぶとくまとわりついているものを始末し、ベッドを降りる。
 ごめん、悪かった、と口の中でまず言うべき言葉をリハーサルして。
 自分を引き裂いて丸めて焼却炉にぶっこみたいくらいに自尊心はボロボロだが、自己嫌悪で沈んでる
場合じゃない。
 おそるおそるバスルームのドアに手をかけると、幸いロックまではされていなかった。
そっと開けると、シャワーの音と湯気に包まれる。広いバスルームの一番奥に、大きな白い猫足の
バスタブがあり、シャワーが高い位置から勢いよく注がれていたが、彼女の姿は無く……いや、
いないはずはない。
 シャワーの下、バスタブの中に隠れるように顔を膝に埋めてうずくまっている。

 きっと―――泣いている。

 踏み出した足に躓くものがあり、見下ろすと、乱暴に脱ぎ捨てられた彼女の服一式だった。
 それをまたぎ、バスタブに近づき、シャワーを止める。
 気配は感じているだろうに、彼女は顔を上げない。

 泣かせてしまった。

「……ごめん、悪かった」
 バスタブの外に跪き、とりあえず謝る。
 謝る以外、できることはない。
「変なこと言って……乱暴にしちまったのも、ごめんな」
 濡れた髪にそっと触れる……と。

 突然彼女が顔を上げた。
 泣き濡れた顔を。
 そして叫んだ。
「そんなに私が信じられないならッ」
 涙があふれる瞳で俺をひたと睨み付けて。
「言えばいいじゃないの!」
 それだけ言って、また顔を膝に埋めた。

 言えばいいじゃないのって……?

 ………あ。
 わかった。
―――彼女が言って欲しい言葉は。

「―――それは言えない」

 それだけは、言えない。
 大切だから、大切すぎるから、言えない。
 好き過ぎて、言えない。
 絶対に、言わない。

「言わないよ」

 濡れた髪を指で梳く。
 指にまとわりつく、絹糸のような髪。
 恋しくて、愛しくて、引きちぎってしまいたいくらい。

 ―――と。
 うわああっ、と泣き声と共に、彼女が抱きついてきた。
 バスタブ越しに、濡れた腕が俺の首にしがみつく。
 俺も細い背を、力一杯抱きしめ返す。

 言えない言葉は―――同じ大学に行ってくれ……だ。

 それだけは、言えない。
 だって、こいつとつきあうということは、こいつの才能や能力、容姿まで含めて、全てを
引き受けなきゃいけないってことで。
 とことんヘタレな俺でも、その覚悟だけは最初っからキメていた。
 こいつは、俺なんか問題にならないくらい遙かな高みに到る人間なのだから、その邪魔だけは
してはならないと。

 彼女を信じていないんじゃない。
 俺自身の不甲斐なさがつらいのだ。
 そのことは、おそらく彼女もわかっている。わかっているけれど、俺に言えない台詞を要求せずには
いられないのだろう。
 
 ヒミコはきっと津久葉大に合格するだろう。そこで俺なんか目じゃない、優れた男たちに
出会うだろう。岡島さんのような。
 そしてそこで成長し、更に光り輝く存在に成長していくのだろう。
 それでも彼女は俺を思い続けていてくれるかもしれない。

 けれど。
 
―――俺が、その状況に耐えられるのか?
 自分の不甲斐なさを、直視し続けていくことができるのか?

 少なくとも、ヒミコの方から―――俺はもう必要ないのだと、そう告げられるその日まで、
耐えられるほど、俺は強いのか?

「……脱げば?」
 半分泣き止んだ彼女が、鼻声で言った。
「濡れちゃった」
「ああ……」
 そういえば、まだ中途半端に服を着たままだった。
 彼女がすん、と鼻を啜りながら俺から腕を放して、
「一緒にシャワー浴びよう……そんで」
 泣き顔で、微笑って―――とてもつらそうに。
「もいっかい、してよ……うんと優しく、上書きして」

―――心が震えて、次の瞬間、手が震える。
 自分だってギリギリなのに、こうして笑って、赦しをくれるヒミコが。
 本当に、本当に、好きだ。
 
「……わかった。まかしとけ」
 だから、俺も笑う。
 声を震わせながら、笑う。

 服を脱ぎ捨て、シャワーのコックを捻りバスタブに入る。2人入るといっぱいいっぱいなのが
この場合は都合がいい。
 向かい合い、脚を絡ませ、ボディシャンプーを泡立てた手で、お互いの体を洗い合う。
「やだ、くすぐったい」
 泣いて腫れぼったい目で、彼女は笑って身をよじらせる。
 唇を合わせ、堅く立ち上がった乳首をそっと指で挟む。
 吐息が、切ない。
 細い指が、俺のしなだれていたモノを弄ぶ。それはみるみる勃ちあがり、彼女が欲しいと
ねだりだす。

 先のことはわからない。
 不安はいつもそこにある。
 離れる瞬間を思うだけで、胸が痛くなるくらいせつない。
 それを今日、心の底から思い知ってしまった。

 けれど。
 今は。
 少なくとも、これからの1年は。
 刹那、なんてかっこつけた言葉、俺たちには似合わないけれど。
 切なさを抱えたまま、寄り添っていくしかないのだから。

「……ベッド、いくか」
 唇を触れたまま囁く。
「ん……」
 彼女が名残惜しげに唇を離して頷いた。






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