Touch 1回

 夏休み。
 高校生になって始めての夏休み。
 受験勉強に追いまくられてた頃は、高校生になれば何か良いことがあるに違いない、カワイイ彼女なんかできて、明るい青春を送れるに違いない!
 そのためには、今頑張らなくて、いつ頑張る!!
 そう思って歯を食いしばって頑張ってきた。
 きたのに……
 西の空にはまだたっぷりオレンジ色が残っているが、東の空には星が光り始める時刻。
 その星に向かって溜息。
 もうすぐ8月。夏休みが始まって一週間ほどたった。
 一週間も経ってしまった。
 夏休みが始まってからというもの、午前中は陸上部の練習で、午後は昼寝か、友達か妹たちと海に行って泳ぎ、夕飯を食べた後に勉強(すぐ眠くなってしまって、宿題の山は全く減少する兆しも見えないが)という、全くもって健康的な模範的体育会生活を送ってしまっている。
 こんなはずじゃない……
 縁側にいると海風が涼しいが、うちわが手放せない。蚊取り線香の煙をかいくぐって、蚊がひっきりなしに襲ってくるから。
「あはははは、見て、お兄ちゃん、おじゃる、バカだよー」
 テレビを見ている下の妹(幼稚園児)が、俺のハーフパンツからむきだしの腿をぴしゃぴしゃ叩きながら笑う。
……いてえ。
 こんなはずじゃないんだ!
 高校生の夏休みが、妹と『おじゃる丸』など見ながら、夕飯を待っているなんて、こんな平和であって良いはずがないのだ!
そうとも、こういう晴れた日の夕暮れは、海辺でカワイイ彼女と夕陽を眺めつつ、
「そろそろ帰らなきゃー」
「もうちょっといいだろ」
「でもぉ、門限があ」
「俺がチャリぶっとばして送ってくから、大丈夫だって……」
 ちゅー。
―――とかしてなきゃいけないはずなのに!!
 おかしい。高校生活ってこんな平和で地味なものではないはず……
 いきなり、べちゃ、と後頭部に冷たいものが当たった。
「あ、ごめん、テーブル狙ったんだけど、外れちゃった」
 お袋が台所から顔を出して言った。
 冷たい物をこわごわと後頭部から引きはがすと、絞りたての台ふきんだった。
「ついでだから、お兄ちゃん、テーブル拭いちゃって。悪いわねー」
 お袋はすぐに顔を引っ込めた。
 ぜえったい俺を狙ったんだ。テーブルと俺は1メートルは離れてる……
 けれど、文句を言っても腹が減るだけだし、絶対理屈では勝てないし、下手すると夕飯の内容に響くこともあり得るので、不毛な行為には挑まず、テーブルをおざなりに拭いた。
と、ヒップポケットに突っ込んでた携帯が『サクラ咲ケ』(女の子受けを狙った選曲のつもりなんだが、まだ反応してくれた女の子はいない。それとももはや旬を過ぎてしまったということか?)を鳴らした。電話だ。慌てて表示を見ると、小嶋由樹だった。
なんだろ? 小嶋から電話なんて、珍しい。大概メールなのに。
「はい? 小じ……」
「くっ、熊谷っ、来いっ、う、うちの店に、早くっ」
 小嶋か? と確認する暇も与えず、電話のむこうの小嶋は裏返った声でまくしたてた。
「はあ? いきなり何なんだよ」
「い、いいいいいいから、早くっ。来てみりゃわかるって!」
 キンキン響いて、耳が痛い。
「そう言われたって、もう飯なんだって」
「飯どころじゃないよ! 来なきゃ絶対後悔するって!!」
「だから何」
 飯より大事な用事ってあるのか?
 電話の向こうの小嶋のテンションは更に上がって、
「だって、ミヨ先生が、ウチの店に、彼氏連れて来てるんだよ!」
絶叫するように言った。
 その絶叫に
「すぐいく」
とだけ答えると、俺は携帯をたたむと同時に、廊下のキーフックに下がる自転車の鍵をひっつかんでいた。
「えっ、お兄ちゃん、どこいくの? ご飯できたよ?」
 丁度台所から出てきた、食事の支度を手伝っていた上の妹(中一)が驚いてのけぞり、両手に抱えているザルから、山盛りの枝豆をこぼしそうになったが、
「小嶋んとこの店。すぐもどるから残しといて!」
「由樹ちゃんとこ? なんでー?」
 追いかけてきた更なる問いは無視し、俺は玄関から飛び出し、自転車にまたがった。
 小嶋の両親がやっている居酒屋「六兵衛」までは、歩いても10分くらいだが、その時間も惜しい。自転車の上で身を伏せて、坂を一気に駆け下りた。
 小嶋家の自宅は、店とは離れた、俺ん家よりも更に山寄りにあるのだが、夏休み中はかきいれ時ということもあり、小嶋も毎晩のように店を手伝っている。
 俺や、多くの中学の同級生たちは地元のI高など佐渡島内の高校に行っているが、小嶋由樹は勉強ができるので、新潟市内の私立の女子高校に進学した。寮で生活をしているが、どうやらお嬢様学校の寮になかなかなじめないらしく、週末のたびに帰省している。夏休みも終業式の日に即刻帰ってきた。
 親元を離れて寮生活なんてうらやましい、と俺なんか思っちゃうんだけど、やはり佐渡の田舎の居酒屋の娘が、お嬢様学校で寮生活ってのは、それなりにキツイもんがあるんだろうか。
 「六兵衛」と黒々太々と書いてある赤提灯の脇に自転車を止め、はやる気持ちを宥めつつ、静かに木の引き戸を開けた。開けたすぐそこに、酒屋の景品くさい藍のエプロンをしめた、小嶋由樹の後ろ姿があった。
 店内は夏休み中ということでそれなりに混んでいた。海水浴客らしい家族連れや大学生っぽいグループなどでテーブル席は埋まっている。
 引き戸はそれなりにカラカラと滑車の音を立てたのだが、小嶋は振り返ろうとしない。お盆を胸に抱きしめたまま、ぼーっと店の奥を見つめている。客が来たら厨房に知らせる役目で入り口に立ってるんだろうに、全然働いてないじゃんか。
「おい、小嶋、来たぞ」
 小声でそういうと、小嶋は驚いたように振り返り、
「お、おお、熊谷、早かったね」
「お前がすぐ来いって言ったんじゃんよ」
「それにしても早いって。やっぱミヨ先生の名前出すと早いな」
 小嶋はそばかすの浮いた頬をニヤニヤさせた。
「んで、どれだよ?」
 ニヤニヤは無視して、小声で訊く。
 店が混んでて、ミヨ先生の姿が見つけられない。
「ホラ、あそこ。一番奥」
 小嶋が指さしたのは、店の一番奥の座敷席、太い柱の向こうなので見えにくいが、確かに長い黒髪の後ろ姿がある。
あれ。その後ろ姿と向き合っているのは……
「え、ダリリンじゃん?」
「そうそう。佐々木先生に彼氏引き合わせてるみたいで」
 ミヨ先生の向かいには、クレオパトラみたいなおかっぱに、鮮やかなマリンブルーの地に、襟ぐりにエスニックなキラキラのビーズ刺繍が入ったワンピースを着た女性が座っている。俺らの出身中学の美術教師、佐々木加寿子先生だった。
 佐々木先生は、風景画家としても活動していて、普段は上品な奥様風なのだが(バツイチだが)、怒ると人相が変わるくらいに人格が変わる。その怒った顔が、教科書に載っていたダリの写真と似ているということで、ダリリンと呼ばれている。その呼び名は、すぐ佐々木先生本人にバレ、さすがに不愉快だろうなあと思いきや、その場にいたヤツの話によると、
「まあ、偉大な画家に似ているなんて、嬉しいわ。うふふ」
 と喜んだそうな。大物なのだ。
 そっか、ミヨ先生、ダリリンと仲いいんだっけな。
「んで、ミヨ先生の隣にいるのが彼氏ぃー」
 小嶋は語尾を妙にはしゃいだようにせり上げた。
 ミヨ先生の隣には、白の海人Tシャツの後ろ姿。肩に少しかかるくらいの長髪は綺麗な栗色。座高から推測するに、身長はミヨ先生より10センチも高くないと思われるが、肩幅が広い。と言っても、ミヨ先生の身長が170超だから、そこそこ背は高いだろう。
「いつだか言ってた、出版社のお兄さんってのがアレだったのかよ?」
アレだってー」
 がはは、と小嶋は下品に笑ってから、
「メラメラじゃん、熊谷。妬いても無駄無駄」
 むか。
「妬いてなんかねーよッ。質問に答えろ」
「マジになんなよなー。えと、別人だって、かーちゃんが言ってた。出版社のお兄さんはマジで友達だったんだねえ」
「ふー……イテッ」
 背後の引き戸が乱暴に叩き開けられ、飛び込んできた人物に足を踏まれた。
「こんばんはーっ!」
「六兵衛」に元気な挨拶と共に飛び込んできたのは、佐藤香澄だった。
 佐藤は同じ高校なので、イヤでも毎日のように顔を見ている。
「おーカスミン来た来た」
 小嶋ってば、佐藤にも電話してたのか?
「あら、香澄ちゃん、おや、熊谷くんもいらっしゃい、どうしたの?」
 忙しそうに店内をかけずり回っていた小嶋のかーちゃんが、佐藤の大声に気付き、生ビールのジョッキをお盆に載せたまま、こちらを不思議そうに見た。小嶋のかーちゃんだけでなく、店内のお客さんたちも―――もちろん、ミヨ先生も、ダリリンも、そしてミヨ先生の彼氏も、俺たちの方を注視していた。
 ミヨ先生は俺たちを見て、一瞬驚いて目を丸くしたが、すぐに、もーっ、というように苦笑しながら小嶋をにらみ付けた。
 小嶋は首をすくめたが、佐藤は。
「うわ……」
 感嘆の声を上げて立ちすくんだ。
 俺も声が出なかった。
 ミヨ先生の隣から、淡く金色の光が立ち上っているような気さえした。
 あの顔……外国人なのか?
 いや、ハーフか?
 肌の色は白いけど、欧米人ほど掘りが深くて濃いわけじゃない。でもひとつひとつのパーツに主張があって、そしてそれらのパーツが完璧なバランスで配置されている。ほっそりとした卵形の輪郭に、細く通った鼻筋、上品に笑みを湛えたような小作りな唇、それから目力を感じさせるくっきりとした二重に、栗色の瞳……ってことは、あの透けるような栗色の髪も、地毛か?
「王子様やん……」
 更に佐藤が呆然と言った。
 確かに、それ系の顔かも……レースとかフリルとかタイツとか似合いそうだ。
 王子はくすっ、って感じに笑うと、ミヨ先生に何かを耳打ちした。先生は一瞬驚いたように王子の顔を見てから、俺たちを手招きした。
 トレイを抱えたままの小嶋を先頭に、奥の席に行くと、
「もーっ、小嶋さん、わざわざ熊谷くんと佐藤さんを呼び出さなくてもいいじゃないのぉ」
と、ミヨ先生が笑いながら言った。
「即席同窓会ってところね」
 ダリリンも太い鉛筆を小さなスケッチブックの上に走らせながら笑った。どうやら、ミヨ先生の彼氏をスケッチしているらしい。確かに、画家としては描いておきたくなる素材なんだろうな。
「こんばんは」
 彼氏がにっこり笑いながら言い、
「こんばんはぁ〜」
 女二人はいつになくうわずった声で挨拶を返した。小嶋は先に挨拶してるんだろうに、我を失ってるな?
 ダリリンが、
「曽根先生、とにかく座らせてあげたら? 卒業した生徒が集まってくれたんだもの、何はともあれ、嬉しいことには違いないわ」
「はあ、それはそうですね」とミヨ先生はちょっと困った顔をし、
「コウさん、いい?」
と、彼氏にお伺いをたてた。
 コウって、コウイチだろうか、コウジだろうか、コウゾウだろうか。
「いいよ、もちろん」
 彼氏は楽しそうにいそいそと席を詰めてくれ、俺たちは先生たちと同じ席に着いた。 

−◇−◇−

「うそーっ、そうなんですか! 早乙女先生の弟さんなんですか!」
 小嶋が声ばかりでなく、体までひっくり返しながら驚きの声を上げた。
 彼氏はコウイチとかじゃなくて、晃というのだということや、まだN大の大学院の学生であることなんかを聞き出すうち(モデルか何かじゃないかと思ったんだが、違った)、小嶋の高校の英語の先生が、彼氏のお兄さんだということが判明したのだった。
 彼氏はにっこりして……作ったように完璧な笑みだ。歯が白い。
「世間が狭いですねえ。それにしても小嶋さん、優秀なんですね。聖信学園の進学コースって言ったら、定員も少ないし、難しいでしょう?」
「えっ、きゃー、優秀なんてことないですぅ。たまたま受かっただけでぇ」
 小嶋は彼氏の言葉と笑顔に、顎の下に両手の拳を揃えるという古典的ブリッコポーズをとりつつ、掘り炬燵(もちろん火は入ってないが)に下ろしている足を、舞い上がりそうにじたばたさせた。
 けっ。優秀なんてことないですー、なんて、良く言うよ。小嶋はサッパリして面倒見が良くて概ねイイヤツだけど、何かにつけ成績を鼻にかけるとこだけはイケてないんだっつーのに。
「ねえねえ」
 小嶋に、隣に座っている佐藤が小さな声で耳打ちした
「お兄さんも晃さんみたく、特注イケメンなの?」
 さっそくミヨ先生の真似して「晃さん」とか呼んでやがる。それに特注イケメンって何。
「うーん、いやー、えーと、お兄さんも悪くないけど……」
 小嶋は首を傾げて、不思議そうな顔をした。
 そして。
「……全然似てないな」
と、呟くように言った。多分、彼氏には聞こえなかったと思う。テーブルを挟んで真向かいに座っている俺にやっと聞こえたくらいの小声。彼氏はダリリンとしゃべってたし。
 と。
「すみませーん、女将さん、この子たちに烏龍茶かコーラでも出して頂けませんかあ?」
俺の隣に座っているミヨ先生が、突然大きな声で小嶋のかーちゃんを呼んだ。
「え、先生、あたしお財布持ってこなかったよ?」
 佐藤が慌てて言った。
「そのくらい奢るよぉ」
 先生は笑って腕を伸ばし、テーブルの上に肘をついていた佐藤の腕をポンポンと叩いた。
 小嶋のかーちゃんが、烏龍茶とコーラとオレンジジュースとどれがいい? と訊きに来てくれ、おばさん烏龍茶に少し焼酎入れてくれませんか? などと答えてミヨ先生に小突かれたりしながら、ふと思った。
 ミヨ先生は、俺らの話題を変えようとしたのかもしれない、と。